◇英国グラスゴーノーベル社と契約
英国グラスゴーノーベル社と契約し、東日本地域のダイナマイト販売を一手に担う。
英国グラスゴーノーベル社と契約し、東日本地域のダイナマイト販売を一手に担う。
秋田市に支店を開設する考えを、義正店主は余程以前から持っていた。秋田県には、鉱山が多いことから需要も多いので、支店を設けると何かと便利であろうと考えていた。
社内で投資や人材などの問題を検討していたところ、ノーベル会社でも火薬の販路を一層広げたいとの意向を示し、函館と同様の契約を結んでもよいとの提案を受け決意し、工藤保吉氏を調査のため現地に派遣、位置の選定その他の交渉を始めさせた。
初めに、火薬販売営業許可を取得しなければならない。当時、秋田に三人の火薬業者がおり、そのうちの1人である秋田市上肴町の加賀谷喜助から火薬銃砲の営業権と火薬庫看板を譲り受けることになった。甲種火薬類販売営業許可及び銃砲販売営業許可を取得して開業したのは、大正2年5月で、秋田市古川堀反町二二番地に秋田火薬銃砲店の看板を掲げた。火薬庫は大正2年9月に完成したものであり、所在地は秋田県南秋田郡川尻村字八橋境である。この火薬庫に対し、ノーベル会社の評価が高く、さらに二棟増築して五棟に拡張した。
大正5年9月、秋田火薬銃砲店から三田火薬銃砲店秋田支店に改め、秋田市大町二丁目に店舗を移転する。
大町は、佐竹藩政によって区画された商家町で、街道の町並みを整えるため表通りは二階建てを命じられ、衣類呉服物や小間物を主とした家督専売(後継者を失うと営業できない)が許されたと伝えられる。合名会社風間呉服店から取得した建物は、明治43年12月20日付で保存登記されたもので、土蔵を三棟設け、店舗と母屋が別棟の如何にも商家らしい造りであった。昭和54年12月、大町再開発により取壊されるが、取得以来63年間、秋田支店の店舗として大切に使用した。
大正6年2月、札幌南一条西四丁目の菓子屋利久から土地家屋を譲受け移転する。業況も先ず順調に進展し、支店長に義正店主の長男義一(後の初代社長)が着任する。その頃、三菱鉱業は個人炭鉱を買収して美唄工業所を、三井鉱山は砂川鉱業所を開設し、所謂空知炭田が衝天の勢いで興隆した時であったから、火薬商も群雄割拠という有様で、盛んに売り込みが始まり三田義一支店長も第一線に立ち陣頭指揮をとり活躍する。
灯火(ともしび)用から始まった石油は、内燃機関の動力源としても第一次世界大戦で国内需要が急増し国産原油のみでは不足を生じ、輸入も必要となってきた。大正7年11月で世界大戦が終結すると外国石油会社が再び日本市場を影響下に置く勢いを示し始めた。
三田商店が石油の販売を手がけたのは大正9年7月のこと、テキサス油会社と契約を結び始めた。記録によれば、
米国テキサス州ヒューストン市
テキサス油会社日本支社東京総本店
東京丸の内 三菱21号館
より北海道代理店を引受けた、とある。
札幌支店が三田火薬銃砲店の石油販売の先駆けとなり、函館、室蘭の両支店にも広めたものと思われる。テキサス油会社代理店として販売能率増進を図るため、三田札幌支店に油専門販売係一名を置くことや、新聞雑誌へ宣伝広告、得意先訪問日程等を協議している。
当時の佐々木清治郎札幌支店長が残している記述文によれば、米国テキサス油会社から初めて派遣されたフィリップ・ハーベー技師が来道したので、三田義正店主が小沢牧場で迎えて対談し石油の販売などを協議したとある。
テキサス油会社は、米テキサス州スピンドルトップで大油田が発見された後の1902年(明治35年)設立の会社で、ロックフェラーのスタンダード系に属さないメジャーの一つ、1959年(昭和34年)テキサコに改称している。
原敬首相と三田義正
『東北文庫』発刊記事(昭和25年10月号)より収録
原敬が爵位を持たずに首相の座に就いたのは大正7年9月であった。
在世中は、小野慶蔵と三田義正を強く信頼していたことから盛岡に帰ると必ず三者で一夜宴を開き、懇談することにしていたという。
明治35年、選挙法の改正で盛岡市から衆議院議員1名を選出できるようになった時、原敬を候補に立てたのが小野慶蔵であり、後援したのが三田義正である。
原敬は南部藩の家老の子であり、前逓信大臣の肩書を持っているとはいえ、明治16年以来盛岡に帰ったことがなく、地元になじみ少ない人で苦戦するであろうと見られていた。しかし、結果は両者の協力で原の大差の勝利となり、これによって原敬は憂いなく政治活動を行うことができるようになったのである。
大正10年、平井六右衛門が任期を余して貴族院議員を辞任したことから、その後任に三田義正を推したのが原敬である。 原敬が東京駅で暴漢に刺殺されるという悲運に遭ったのが、その年の11月4日である。この貴族院議員推挙があったのが、悲運の起こる1ヶ月前の10月であった。三田義正は、その任にあらずと固く辞退したが、原敬から使者を通じての再三にわたる懇請により遂に受諾を決意したのである。その時既に、原敬が暗殺された後であるため菩提寺を訪ね、補欠選挙に出馬することの決意を報告したのであった。
貴族院議員の対立候補は立たなかったが、金田一財閥一派は快く思わず反対行動に出ようとする動きがあり、義正は金田一国士を訪ね礼を尽くし挨拶したところ、
「今度の選挙は私も応援するが、条件がある。それは金田一系の事業を妨害しないことだ」と思い上がった態度であったという。
この時義正61歳、相手は年齢も遥かに下の若造の暴言など聞く耳を持たないが、黙って承諾したのである。それは、故原敬の知遇に報いる気持ちが満ちていたためである。
金田一国士は、岩手産業開発の重鎮金田一勝定の養子で、盛岡銀行、盛岡電気会社、岩手軽便鉄道などの多くの事業に参画し、将来期待の若き実業家である。 しかし、金田一のこの一言は三田義正にとって全く心外であって、事業に対する才覚を高く評価しており、応援しようと思っても妨害することなど全く考えたこともなかった。むしろ、彼と一緒に仕事をしたら面白いのではないか、常に新しいものに向かって行こうとする迫力には感心すると身近な人に洩らしていたものだが、これ以後はあまりこの事に触れなくなった。逆に、彼は非常に切れ者だが、側近に余程しっかりした人が付いて舵を取らないと誤った方向に行くおそれがあると、批判的な言葉が出るようになった。
金田一家は金融資本家的な要素を多く持っているのに対し、三田の方は地主的性格が強く、すべて地味であったから、そこには対立しなければならない理由は一つもなく、むしろ相互に利用し合う面があったのに、交りのない二つの平行線となっていった。
以上が東北文庫掲載文である。
原敬は三田義正らとの親交が深まり、地盤も固まって連続七回も無競争で選出された。 原首相は郷土を離れて久しく、岩手県の産業や交通についての情勢に乏しかったこともあり、三田義正が多くの献策を行った。殊に、鉄道施設の重要性を強く建議したといわれている。
大正12年9月1日午前11時58分、相模湾を震源地としたマグニチュード7.9の大地震が発生、東京市内178ヶ所から出火した。火は烈風や旋風を巻き起こし、3日間にわたって燃え続くという大惨事になった。日本橋、神田、浅草、本所の各地は、その9割が焼失東京市街地の焼失率は全体の44%にも及ぶ状態で、三田火薬銃砲店東京支店の建物も類焼してしまった。店舗は焼失したが、建物の崩落から危機一髪逃れ、火災の中を避難するなど人身事故は皆無であったことは極めて幸いであった。この9月1日を防災の日と定め、東京支店一同で昼食の炊き出しを共にして往事を偲び、災害に対する心構えを新たにしたものであった。
震災復興は東京の街づくりへと向かい、多くの反対や障害をクリアして進行した。復興計画の中心となったのが土地区画整理事業で、換地の決定、減歩、保証金・精算金の算出という順序で、大正13年3月から開始された。震災直後は、通信網も交通機関も途絶、本店との連絡は人を派遣するより方法なく、ようやく盛岡から建築材料や大工職人の応援を得て、焼け跡に木造2階建の東京支店店舗を再建した。この時、一箱5~6円のガラスが26~27円に暴騰したという。
関東大震災の恐怖と対応
三田商店の歴史の中で、忘れられないのが関東大震災の恐怖であろう。
店主三田義正翁は、たまたまその日大正12年9月1日朝6時着の汽車で盛岡より上京、直ちに堀江町4丁目の東京支店に向かい、海外視察から帰国して間もない長男義一・とみ夫妻と一緒に朝食を済ませ休息、その後人力車で銀座交昫社に出かけた。それは、時の内閣が瓦解して政界の往来俄かに烈しくなり、三田義正翁の所属する貴族院交有倶楽部も午前10時から同所で会議を開くので、これに出席するためであった。ところが、11時58分まだ会議が終わらぬうちに、世紀の大地震が襲来したのである。
会議室は3階、地震と同時にエレベーターが止まり、恐怖と混乱の中を階段をよろけながら外へ飛び出し、待たせていた人力車で急ぎ麹町隼町の渕沢寛造宅へ駆け付けた。渕沢一族全員が屋外に避難して無事であることを確かめて、堀江町の東京支店に引き返した。義一夫妻はじめ店員一同、皆無事であったことを喜び合った。
しかし、余震が烈しくて屋内に入れず、往来に椅子とテーブルを持ち出して待機、善後策を練っているうちに、あちらこちらから火の手が上がり始めた。昼食時間帯であったことから、家庭で火を使っている場合が多く、失火につながったと思われる。火は風を呼び、風は火をあおり、火勢次第に激しくなり、堀江町あたりにも迫って、その夜付近一帯はついに焦土と化してしまった。この類焼から守れたのは、店舗向かいにあった倉庫で、危険が追ってきた時に台所から味噌を持ち出し、入口などを厚く目張りしたため救われた。
"東京市が壊滅"という緊急事態に、食糧はじめ生活物資の手当てと大工職人や復旧資材の応援が急務であり、通信網が途絶していることから店員を急使に差し向けるよりなく、店主は入店して間もない若い手島龍雄氏を選び派遣した。同氏は前年の4月に入店した東京支店経理係であり、後に常務取締役となった人である。
その時の手島回顧録には次の通り記述されており、苦難の出立であったことが窺われる。
9月1日午後2時、店主の命に依り本店宛の書状を携えて、盛岡に向けて立つ。
人形町から電車線路に沿って上野に行く。汽車は動かず、徒歩で赤羽まで行ったが、矢張り汽車はない。
傾斜した鉄橋を四つん這いになって渡り、辛うじて大宮に着く。疲労甚だしい。
駅員に質しても不明確で、宇都宮まで行ったら汽車が出るかもしれないが、その手前では無いと言う。
あきらめて東京へ引き返す。
上野に着いたのが翌2日の未明で、歩いて堀江町に来たら、支店の建物は焼けて跡形もない。
再び歩いて上野に行き、山の上で微睡む。
夕方、自ら勇を鼓し、徒歩で赤羽に到着、工兵隊が架けた舟を並列に使った仮橋を渡る。途中、朝鮮人暴動の噂が広がり不安にかられる中、警官に時々提灯で顔を照らされるなど薄気味の悪い夜を過した。川口で北方面行きの汽車にやっとの思いで乗車、仙台に着いて盛岡に打電することが出来た。
9月3日午後盛岡着、迎えの人力車に乗り内丸の本店に到着した。店主実弟や家族、店員や関係者ばかりでなく、新聞記者も多数集っていて震災の模様を開かんものと待ち構えていた。そこで、逐一報告し携行の店主親書を手渡し、三田俊次郎氏から全員の前で朗読されたが、安堵したことから疲れがどっと出て、その文面の内容は記憶していない。
翌々の9月5日、人夫2人に当座必要な物資を背負わせ東京へ向かって出発、田端駅で下車した。人夫を連れ徒歩で隼町の渕沢支店長宅に着いた。1日午後に堀江町を出て以来、消息不明となっていたことから、手島は死んだかも知れないと捜索人を出していた程であったから、店主を始め皆さんに大変喜んでもらえた。
以上が手島手記であるが、大震災発生の報に盛岡本店でも大騒ぎとなっていた。相次いで耳にする惨害の悲報に憂慮するも、交通機関や通信網が途絶している中、店主はじめ店員の安否を探る手立ても付かず、犠牲となったのでなかろうかと危惧するはかりであった。
とりあえず救援すべく、小泉多三郎氏ほか数名が先発隊となり、翌日には工藤保吉の諸氏が東京に向かって出発した。救援隊は駅毎の雑踏や喧騒を見るにつけ不安が増すはかり、先を急ぐも汽車は川口止まり、その先は徒歩で泊まることも不可能、いろいろ苦心を重ね翌日東京支店に着くことが出来た。幸いにも、店主をはじめとして全員無事であることを知り、安堵の胸を撫で下ろした。
翌4日には、店主を中心に対策会議を開催、まず第一に本支店の供給を円滑ならしめるため店員の部署を定め、その他の者は焼け跡の後始末に従事した。店主は、大阪に工藤保吉氏を派遣し、本店に代わって供給が円滑に行くように対応した。この時、三井や北海道炭砿でも大阪に出張所を設けて資材の購買を行ったが、三田の対応が他社より一歩早かっただけに好評を博したという。
関東大震災は東京の歴史を一変させた出来事であった。地震とともに発生した大火災が、都市災害の恐ろしさを如実に示したものでもある。それは、墨田区の陸軍被服廠跡地の二万坪を超える広さの所に、避難して来た人と荷物があふれ、そこに火の粉が吹き付けて猛火となり、44,000人余が焼死するという悲劇が発生したことである。
もう一つは、狭い道路に多くの市民が荷物を背負ったり、荷車に家財を積んで右往左往して道路をふさいだばかりでなく、荷物に着火して火災を誘発してしまったことである。
東京が近代都市として発展するには、避難場所の設置と道路網の整備、少なくともこの二点が急務であることを教えられたと言い得る。