明治 大正 昭和 平成 導火線 索引

三田商店100年のあゆみ <昭和>

◇商都小樽の今昔・小樽支店の開設(のち札幌支店と併合)

 北海道の経済界の中にあって、主動的な立場にあった商都小樽が、往時の面影を失ってしまったと言われて久しい。石造ビルの立ち並ぶ色内町通りは、「北のウォール街」とも呼ばれ、金融、海運、商社等の機関が集中、明治から大正・昭和の年代にかけて大変な活況ぶりであったという。

 明治13年11月、小樽・手宮から札幌までの35.2kmに、北海道で初めての鉄道が開通した。さらに幌内までの鉄道が明治15年11月に開通している。この鉄道は、石炭を港まで運搬するのが主な目的で、人の輸送は副業であった。手宮・札幌間を最初に走った機関車はアメリカ製で、片道を2時間半かけて鐘を鳴らしながら走ったと伝えられている。この鉄道の開通によって、小樽は行政府札幌の玄関となる最寄り港に位置付けられ、小樽の商業や海運が繁栄する礎となった。

 旭川までの鉄路が明治31年、さらに富良野を経て釧路まで延長となったのが同40年である。このことが、海上輸送で北海道各地を掌握していた函館商圏に変化をもたらし、鉄道を通じて小榑商人が旭川の道央や釧路の道東の各方面に進出するようになって、小樽経済圏が拡大した。そのうえ、日露戦争終結後に樺太(現在のサハリン)が日本の領有となって、小樽港を起点とする商談が増えてきた。また、漁業・林業など資源の豊かな樺太に移住する者が、大正の中頃に急増したことによって商都小樽に好結果をもたらしたと言われている。

 小樽と言えば、火薬の大爆発事故を忘れることができない。 日本火薬製造厚狭作業所から川口屋および三田宛として、火薬類約1,000箱を積んだ正保丸が大正13年12月26日小樽に入港、艀から荷揚げして貨車積み作業中のところ、約600箱が大爆発を起こした。一瞬にして、死者64名(内2名は監視中の警官)、行方不明30余名、重軽傷者200余名、家屋倉庫の倒壊や船舶の被害甚大という全く惨憺たる大事故となった。三田宛の物は、殆ど札幌その他へ向け発送した後で、爆発したのは195箱であった。店主義正は、事故の発生を悼み犠牲者に対しそれぞれ見舞金を贈り、また香典を供え、さらに小樽新聞社を通じ義捐金を拠出するなど、出費も莫大なものであった。

 爆発原因は、関係者の死亡或いは行方不明などにより調査究明はできなかったが、真冬の厳寒の中で焚火で暖を取っていたのではないか、荷役中に落下したことが引き金になったのではないかと諸説紛々であったが、結局は全く手掛かりを得られなかった。しかし、この事故がダイナマイトの凍結という問題を提起、ニトログリコールに置き換え難凍・不凍品を製造することになり大きな前進となった。

 この爆発事故の善後処理を進めるにあたり、店主義正翁は小樽財界の有力者のうち特に三人から並々ならぬ協力を得た。その3人とは、久野武三郎、福原清吉、磯野進の諸氏である。

 久野武三郎氏は久野回漕店店主で、当時小樽海運業組合長の要職にあった。手島龍雄元常務取締役の親戚にあたる人で、同氏入店時の身元保証人であった。

 福原清吉氏は、木材業、自動車販売業に火薬商も兼ね営業していた人で、数年後に入船町の土地建物と火薬商の営業権を好意的に譲渡してくれた人であった。

 磯野進氏は海産物を取り扱う豪商で、後に小樽商工会議所会頭になられた名士であり、小説『不在地主』のモデルと言われている。爆発事故当時は火薬商をも兼業していたこともあり、久野武三郎氏とも大変親しい間柄であった。その後も、店主義正翁は北海道経済の中心地小樽を度々訪ね、経済動向の視察ばかりでなく、善後処置に奔走してくれた諸氏を表敬訪問したものであった。

 昭和年代に入って、福原清吉氏の経営する銃砲火薬の営業権、店舗、土地、火薬庫等譲渡の申し入れがあり、昭和2年4月三田で営業を譲り受けることになった。この営業免許の申請にあたって、久野武三郎氏の協力を得たと言われている。

 同年5月、小樽市入船町の店舗所在地を本社にして、「株式会社三田商店」を設立した。取締役社長に三田義一氏が就任、盛岡本社の現三田商店が設立する約2年前に、既に株式会社で存立していたというから面白い。

 昭和4年5月に、三田火薬銃砲店の法人化に伴う吸収合併により、株式会社三田商店小樽支店となった。小樽店の営業で大きな柱となるのは、樺太向けの各種商品の販売であった。その樺太には、大手炭鉱各社が続々開発に乗り出してきたことから、火薬類の需要も増大してきた。これらの円滑な供給を図るため、樺太の真岡町手荒見沢に土地1,400坪を求め、昭和10年11月鉄筋コンクリート造火薬庫3棟を築造した。

 小樽支店小林文大が指揮しての下の写真であるが、11月の樺太は酷寒の中と窺われる。終戦とともに喪失する結果となった。

樺太火薬庫竣工[昭和10年11月撮影]

 樺太へ供給する火薬類は小樽港から機帆船に積み、大泊港はじめ沿岸各地へ毎月1、2回海上輸送を行っていたが、毎年のように沈没などの海難事故が発生したという。海上保険契約を締結していたことから商品代の損失を殆ど受けずに処理できたが、納入遅延を来すので荷繰りに苦労したようだ。

 最も難儀したのは、海難事故後に各地の海岸に火薬類が漂着することで、これを収拾しなければならず、困難を極めたことである。それにしても、石炭や魚などの資源が豊富であったことを手島龍雄、小林文大の両氏から驚きを込め伺ったことがある。

 敗戦となって樺太を失い、小樽の商圏は大きく圧縮されてしまった。樺太の真岡町の土地や火薬庫がどのようになったものか、今知るすべがない。

◇三田火薬銃砲店の組織を法人に改め「株式会社三田商店」を設立

 昭和4年5月13日、三田火薬銃砲店の組織を法人に改め、商業部門を継承して資本金100万円の株式会社三田商店を設立する。創業者三田義正翁は相談役に、初代社長には子息三田義一が就任、この時相談役69歳、社長34歳であった。

 三田義正翁は、創業以来長い道のりを回顧し、訓辞を遺した。 そのなかに、「商業の要諦は信用にあり、信用の基礎は信義にあり。而して其の経営の実際に至りては、厳に虚栄を排し実行を旨とせざるべからず。」という明確な指針があり、創業以来一貫した三田商店経営の骨格をなしている。信義とは、約束を守り義務を果たすことであり、いつの時代でも堅持しなければならない不変の哲理である。

 同年12月、商業部門と区別して、山林・農場・牧場その他不動産門をまとめて三田合資会社(現三田農林株式会社)を組織し、義正翁が代表者に就き自ら先陣に立った。

会社設立当時の株式会社三田商店と三田合資会社の法被

会社設立当時の株式会社三田商店と三田合資会社の贈答用手拭

会社設立当時の株式会社三田商店の贈答用風呂敷

◇東京市日本橋区堀江町に東京支店新社屋を竣工

 東京市復興の手始めは、それまでの狭くて不規則な道路を、幹線道路と補助道路に区画整理して建設したことである。東京駅を中心に、環状線や放射線の道路体系が造成された。幹線第1号は品川から銀座を経て千住方面に至る「昭和通り」であり、第2号は九段下から神田両国橋を経て亀戸へ抜ける「靖国通り」で、復興事業の花形となり後々評価を高めた。さらに、避難場所の重要性が認識され、小公園が市民憩いの場として不可欠であることから、平均900坪公園が小学校に隣接して52カ所新設された。

 三田東京支店の建物も、東京市区画整理事業に協力の要請があり、向かい側にあたる日本橋区堀江町(現中央区日本橋小網町)の土地を交換取得、葛西万司博士設計による社屋を新築して昭和5年1月23日移転した。

東京支店新築当時(正面側/裏側)[昭和5年2月14日撮影]

現在の店舗 昭和56年改装[平成14年2月撮影]

 葛西博士は岩手県の出身で、東大建築科を卒業したのち「東京駅」「岩手銀行旧本店」などを手がけた設計の第一人者である。大震災後の建物だけに、新社屋は防災を考慮した耐震構造で、当時としては類を見ないものと評価が高かった。

 江戸川の支流東堀留川を背にし、河畔の利を生かした地下1階地上一部3階の鉄筋コンクリート造で、松クイを地下一帯に打ち込み、RC柱を太く、玄関など開口部はすべてスチールシャッターで防火対策を施している。窓の位置は、満潮時の東京湾の水位を計測して決めたといわれている。

 機能としての特徴の一つは、ガラス箱受入れのクレーン設備である。英国ピルキントン社製の輸入ガラスを、艀で裏手に接岸させ、クレーンで荷揚げしたものであった。

 震災から復興した東京は、日本の首都として充実し、政治経済の中核をなす都市となった業績の拡大とともに、東京支店は火薬類および銃砲関係で三田商店全体を統轄する重要職務を負うに至った。 東京市は近郊との合併で広域化、さらに東京府の存立もあって二重行政の悩みがあり、これを解消するため昭和18年7月1日をもって「東京都」が誕生した。

 太平洋戦争は末期的状況となってきたところ、昭和20年3月10日の大空襲で東京は壊滅的な打撃を被った。この空襲で東京の4割近くが焼失したといわれているが、三田東京支店の建物は幸いにも無事であった。ただ、隣接の倉庫を建物強制疎開の指令のもと、翌月撤去させられている。

 先の戦災で生じた塵埃の処理を兼ねて土地造成のため、都心の河川や外堀が埋め立てられた。河川や堀が消えて、日本橋や京橋地区は陸続きとなり、そこに大型ビルが林立し景観が大きく変わった。社屋背後の東堀留川も埋められ東京都の分譲地となったことから、昭和27年7月これを取得して社宅用地に活用した。大量の塵芥が埋められていることは同様である。

◇釧路市北大通に「㈱釧路火薬店」を開設(現釧路営業所)

 昭和7年10月27日、三田函館支店の取引先であった釧路市真砂町九三の岩堀氏康氏から火薬類の営業権を引き受けて、「株式会社釧路火薬店」を設立した。

 同社は資本金5,000円、社長には地元薬局店主籠谷義雄氏、三田函館支店松井源吉氏が常務取締役支配人で就任、岩堀氏康氏が取締役という役員で発足した。釧路市北大通三丁目の借家を事務所として、甲種火薬類販売営業許可を昭和7年11月25日付で取得し開業した。これより前、土地手当に難儀を重ねて取得した緑ヶ岡に、火薬庫3棟を建設したのが翌昭和8年であった。

 釧路地区では、早くから太平洋炭鉱や雄別炭鉱など石炭会社の事業が盛んで、火薬類の需要が多かった。

 三田商店が進出する以前の釧路には、三田火薬銃砲店函館支店が海上輸送により、火薬類を炭鉱各社に納入していた。各炭鉱とも使用量が増えてきたが、山元火薬庫に限度があり、荷繰りの円滑化を図るため釧路の小売商に倉敷料を払って在庫委託を行い、安定供給策を講じてきた。しかるに、在庫報告に遅れが生じることにより、得意先への納期に支障をきたすようになった。三田函館支店から出向き、在庫確認や納入打合せを行っていたが、釧路火薬庫を早急に設ける必要に迫られるところとなった。

 海運ルートで全道を掌握してきた函館商圏は、鉄道の発達が地域経済に活性化をもたらし、また徐々に変化を与えてきた。旭川を経て釧路までの鉄道は明治40年に開通した。その結果、漁業、石炭、木材パルプなどの主要産業を背景にして、釧路が東部地区の拠点となった。

 釧路火薬店開業当初の営業方針は、太平洋炭鉱や雄別炭鉱などの大手会社への納入を従来通り三田商店函館支店とし、釧路はその代納行為とその他への販売に努めることであった。また、セメント、ガラスは函館、室蘭、札幌三支店の既存取引先以外の新規を開拓することでもあった。

◇大阪市北区中之島に大阪出張所を開設(現大阪支店)

 三田義正店主は、商業都市大阪の経済動向を常に重要視しており、日露戦争勃発の明治37年頃から年に一、二度出かけ、1ヶ月位滞在することを恒例にしていた。中之島の奥村旅館を常宿にし、大阪に遊びに来ただけと言いながら逗留した。

 三田を知っている人達は、三田は何を計画しているのかと気を回し、殊に火薬の同業者は三田の動静を警戒し営業所開設を嫌い、陰にまわって執拗な妨害が続いた。これらの動きから、三田商店の火薬類営業許可が容易に下りず、結局昭和8年3月免許を得た。昭和8年5月、大阪市中之島六丁目六番地に三田商店大阪出張所を開設した。

 許可を得て開業したものの、火薬類販売に関する東西地域協定問題が紛糾し裁判事件にまで進展したことに巻き込まれ、結局三田商店は関西の業界から身を引かざるを得なくなった。この結果、火薬類を除きセメント、カーバイト、ガス器具、その他雑貨類が営業品目となった。

 この中で、北海道方面向けの漁業用ガスランプと部材はかなりの数量となり、義正店主自ら大阪に出向き、メーカーと直接交渉を重ね仕入れにあたったと言われている。集魚灯は、今は電気であるが、その昔はすべてカーバイトランプで、大阪地区で製造の6割は北海道向けあったというほど大きなウエイトを占めていた。

 昭和20年3月の空襲によって大阪出張所建物を焼失してしまった。そのため、北区曽根崎三丁目に仮事務所を設置、さらに宗是町飯田ビルに事務所を移転するなど苦悩を強いられた後、終戦の幕が下りた。

 大阪市北区宗是町三丁目の土地を求め、戦後の物不足の中で宇治の建物を解体して出張所を構築したのが、昭和23年6月であった。そして、戦時統制の撤廃ばかりでなく、締め出しを受けていた三田商店の火薬類営業行為は、終戦によって協定破棄となり自由販売の時代が到来した。このことにより、火薬類の販売が大阪出張所の柱となり、昭和23年9月、日本火薬卸売業会の設立とともに同大阪支部に加入した。その後、販売網が広がったことにより、昭和37年4月、同九州支部にも加入するに至った。

大阪支店旧店舗(北区中之島)[昭和5年2月14日撮影]

◇第二室戸台風の恐怖と大阪出張所の災禍

 それは、昭和36年9月16日に上陸した大型台風で、記録によれば大阪で最大瞬間風速50.6m、大阪湾は平均潮位より4.15m上昇。高潮によって海水が川を逆流し、土佐堀川、堂島川の防潮堤を越えて氾濫をもたらし、死者29人、負傷者1,800人という大きな惨禍となった。人的被害のほか、全半壊家屋10,000戸以上、多くの浸水事故など物的被害も甚大なものであった。

 宗堤町の三田商店建物にも、あっという間に濁流が押し寄せ、床上浸水の災害を被った。狩猟シーズンを前にして在庫品が冠水するなど大混乱を来した。床上浸水は、肩の高さまで水位が上がり、壁にくっきり恐怖の印として後日まで残った。三田商店も中之島で、この台風の恐怖を体験した人も少なくなったが、当時大阪出張所に勤務していた大内通雄が状況を次のように書き留めている。

 昭和36年9月16日、四国室戸岬に上陸した第二室戸台風は北上し、次第に進路を北東に変え大阪を直撃する気配となってきた。朝から風雨が強くなってきたので、数名の男子社員が店のショーウインドーを防護するため、戸板数枚の釘付け作業に取りかかった。この作業は、大阪が台風銀座と言われるだけに、夏場数回繰り返す年中行事のようなものであった。女子社員は土曜日でもあり、電車が不通となるおそれもあって昼前に退社させた。所長以下男子社員は、早めに昼食を済ませ刻々と入るラジオニュースに耳を傾けていたが、台風情報は益々不安な方へと変わっていった。

 三田商店の建物は、淀川の元本流堂島川と土佐堀川に狭まれた中州・中之島に位置し、万が一に川の水が溢れてきたらどうなるかという恐怖心が潜在意識としてあった。しかし、両河川とも護岸の嵩上げ工事も完了していたので、一抹の不安はあったものの安心感の方が強かった。誰かが心配のあまり、川の様子を見に出かけた。その報告では、強風は川下に向かって吹き、濁流がかなり増水して激しい勢いで流れているが、嵩上げした護岸には、まだまだ余裕があると言うことであった。

 午後1時頃になったら風雨も弱まり、時折薄日も差し青空が見え隠れするようになった。台風一過と思い、皆で胸をなで降ろした。しかし、それがよく言われる“台風の目”であったとは、誰しも想像出来なかった。数分後、風が逆方向に変わって強くなった時、外から大声で叫ぶ声、「川があふれてきた!」

 あわてて外へ飛び出して見たら、両河川からあふれ出た濁水が道路上を押し寄せて来ていた。そこで、急ぎ玄関の扉を締めたが、勢いも強く見る間に店内は水浸しとなった。机の上までは浸水することはなかろうと、袖引出しや大事な物を机上に上げたが、増水の勢い激しく身の危険を感じ始めた。玄関を木材でカスガイ状に打ち締め、全員で近くの大阪大学講堂に避難することにした。水嵩が上がり続けて既に腹部あたりまで来ていたので、濁流に腰を取られないよう手をつなぎ、必死の思いの避難であった。

 数時間が経過して、台風は去ったもののあふれ出た濁水は依然として引く気もない。日暮れとなったので数名の者が泳ぐようにして店舗の様子を点検したところ、破損が見当たらないことを確認し、全ての後始末は明日とした。近くの大阪ビル、三井ビル、朝日新聞社ビル等は勿論のこと、オフィスビルや店舗は悉く水害を被ったが、関西電力ビルは有事を予知してか防潮壁を建物の周囲に張りめぐらせ、唯一災禍から逃れた。

 翌日は見事な快晴となった。中之島一帯の水はようやく引いたものの、台風の置土産というべき泥、塵芥、古材木等が散乱し惨めな様相をさらけ出していた。

 大阪出張所の店舗は、何から手を懸けたら良いやら惨憺たる有様であった。床上浸水のため木肌が浮き上がってひっくり返り書類など散乱激しく、しかも問が悪いことに数日前に買った床油が缶から流れ出しヘドロ状態となっており、一同唖然とするばかりであった。 それでも皆で気を取り直し、掃除にかかった。停電、電話不通であったが、水道が使えたので手分けして4、5日間清掃に費やした。最も心配の猟銃・猟具は、狩猟解禁日が近いこともあって、かなり多い在庫を抱えていた。紙ケース、コロスなどその他猟製品は完全に冠水し、商品価値を失い廃棄せざるを得なかった。猟銃は、即時各メーカーに依頼してオーバーホール(分解点検修理)を行って再生を図るなど、被害を最小限に食い止めた。

 台風が去った後は残暑が厳しかったこと、水害独特の臭気が数カ月も抜けなかったことを含め、台風の恐怖をいやと言う程知らされた。

◇室蘭市浜町に室蘭支店新社屋竣工

 大正11年8月、市制が布かれて室蘭市となり、日本製鋼所と日鉄輪西製鉄所の2大会社が中心の工業都市・鉄の町として広く知られるところとなった。

 株式会社三田商店に組織が改まり、業績も拡大していることに伴い店舗の増強が必要となって、隣地室蘭市浜町66番地を求め、木造モルタル造2階建を新築、昭和9年11月竣工して移転した。 その後、母恋火薬庫の存続が都市化の波を受けて難しくなってきたことから、祝津町158番地に新築し、昭和13年11月完成した。母恋の旧火薬庫は昭和14年5月をもって廃止した。

 この以前に、日本火薬製造株式会社が北海道内に供給する基地として、室蘭市浜町61番地に出張事務所を、火薬庫を小橋内町18番地に設けて運営していた。しかるに、同社の都合により撤退することになったことから、昭和17年5月で三田商店が全施設を引き受けることになった。

室蘭支店旧店舗 正面(昭和9年11月竣工)

◇札幌支店新社屋竣工

 札幌支店新社屋竣工。札幌支店開設当時の取扱商品は火薬銃砲の外は、カーバイト、消火器、撃剣道具などであった。その後、大正9年には米国テキサコ石油会社の北海道代理店となり石油を取扱い、大正10年には板硝子を、大正13年にはセメントを取扱品に加えた。昭和4年4月の株式会社三田商店に組織変更後も順調に進展し、昭和13年セメント統制の時は北海道に於いて取扱数量第1位になるなど名実共に道内各店の首位となり、三田商店中でも最も有力な店となった

 昭和18年2月に道内各店統制のため札幌に北海道支部を置く。

札幌支店旧店舗(昭和13年9月竣工)

◇釧路市黒金町に釧路支店(現釧路営業所)新社屋竣工

 昭和9年11月、釧路市黒金町十丁目の土地建物を取得して移転した。当時の釧路支店は居宅付店舗として昭和14年10月に新築したものである。

 昭和15年2月開催の社内会議で、函館支店が販売している区域を譲り受けることに決まった。この結果、太平洋炭鉱や雄別炭鉱などの大手会社へ納入の火薬類は、函館支店の代理行為から契約窓口に改められたばかりでなく、根室、十勝、網走などの広範囲な市場を担うことになった。

 その後、すべてが太平洋戦争の戦時体制に移行、物価統制・物不足など暗い時代へと突入した。昭和20年7月には、根室、釧路も空爆を受けて戦禍に遭遇したが、三田商店の店舗・倉庫・住宅などに被害なく終戦を迎えた。

店舗敷地の有効活用を図るべく、角地を使っての給油所の建設を企画した。二階建居宅付店舗の12m曳家工事を行い、昭和44年12月ノンスペース式黒金町給油所が竣工した。寒冷期の中で、居住しながらの建物曳家であっただけに難儀したものであった。

◇資本金を150万円に増資

 国内情勢は、昭和11年の二・二六事件、翌年7月の日華事変、さらに国家総動員法公布と暗雲が広がり、同14年9月価格統制令となって公定価格の時代へと進展し、統制経済の枠組みにはめ込まれるところとなった。この間、三田商店は札幌支店と釧路支店の店舗を新築、そのほか各地で火薬庫や倉庫の整備を行うなど体制の充実をはり、昭和16年5月に臨時株主総会を開催し、資本金を150万円に増資する。

◇資本金を300万円に増資

 昭和24年1月、会社設立20周年にあたり、その記念として資本金を倍額の300万円に増資する。

◇三菱石油㈱(現ENEOS㈱)の特約店となる

 三菱商事が米国アソシエーテッド石油と契約し、石油の輸入・販売を開始したのが大正13年4月といわれる。その後、三菱合資、三菱鉱業、三菱商事の三社と米国アソシエーテッド石油の折半出資で、昭和6年2月設立したのが三菱石油株式会社である。同年12月に、川崎製油所が完成した。

 それまでの国内市場は、日本石油、小倉石油、三菱商事、三井物産、ライジングサン石油(シェル石油の前身)、スタンダード石油の6社で競合しており、その後も激しい価格競争が続いた。

 米国アソシエーテッド石油は、昭和11年にタイドウォーター石油に吸収合併され、さらに昭和42年9月ゲティ石油(米国石油王ジョン・ポール・ゲティの経営、1976年死去)が同社を買収して三菱石油株式の50%を掌握した。それがさらに、昭和59年2月テキサコがゲティより買収して取得、続いて同年5月三菱系企業と三菱石油の有力特約店が結束して、テキサコ所有の全株式を買い取った。この結果、外資提携石油会社の始まりといわれた三菱石油は、完全に民族系元売りとなったという目まぐるしい変動の歴史がある。

 昭和の初頭における三田商店の販売状況が如何ようなものであったか、その把握は難しいが、日本石油とも取引上の交流があったとの推測が成り立つ。

 それは、昭和5年5月の義正翁『訓辞』の中に、「日本石油と特約し英の製品の販売を行い云々」と明記されている。さらに、義正翁が率先して取り組んだ盛岡市菜園の造成地舗装工事は昭和6年7月に完成したが、アスファルト仕上げは初めてのものであった。この舗装工事を日本石油に依頼した結果、同社を紹介した義正翁の誠意に応え、立派に完成したという実績が残っている。

 三田商店が全額出資の株式会社東京小倉ガソリン商会を昭和12年11月に設立、東京市内にガソリンスタンドを所有して営業を始めたが、年々強まる戦時統制によって難しい経営を強いられるに至った。同社への供給精製全社小倉石油も原油入手難から合併を迫られ、昭和16年6月をもって日本石油に吸収されている。

 国の内外に大きな犠牲を強いて、太平洋戦争が終結した。国内産業はこの戦争により大きな痛手を被ったが、石油精製業の生産設備の被害が特に大きかったといわれている。戦後のGHQ政策は、すべての産業の非軍事化を目指していたことから製油所の復旧が認められず、わずかに日本海側における原油採掘とその精製のみ許されたにすぎなかった。

 昭和24年は、石油企業にとって復活の足掛かりとなった年、即ちGHQ政策の転換で精製・販売とも態勢の立て直しが始まった年と思われる。それはまず、国内精製会社がメジャーや外国石油会社との提携を進め、原油の手当てを始めたことである。三菱石油は昭和24年3月、米国タイドウォーター・アソシエーテッド石油との資本提携を復活した。同時に、製油所の操業再開と原油の輸入が許可となり、同社川崎製油所も翌年8月に操業を再開した。

 次に、戦後の石油供給を石油配給公団が取り仕切ってきたが、昭和24年3月で解散し、キップ制による消費統制が継続するも、登録元売業者により配給の実務を行うことになったことである。三菱石油もこの年の4月に登録元売業者となり、三田商店はこの時特約店契約を結ぶ。さらに価格および配給の統制が昭和27年7月を持って撤廃されたことから、いよいよ自由販売の時代へと向かった。

◇盛岡市内丸に直営給油所第一号店を開設

 昭和28年10月、三田商店直営第一号と言える当時まだ数少ないガソリンスタンドを盛岡市内丸に建設した。また、北海道、東北の各地で地域有力者との提携を深め、サブ店スタンドの育成に努めた。

昭和30年代の盛岡給油所(内丸給油所の前身)
奥の二階建ての建物は旧本店店舗

◇資本金を1,200万円に増資

 昭和32年1月、資本金を1,200万円に増資する。

 国内経済の成長と共に、三田商店の業績も火薬、ガラス、セメント、石油等を主に拡大した。そのため、販売高や売掛管理を統轄する機構が必要となり、昭和31年2月東京支店内に審査室を設けた。同時に時代の要請に沿い、販売年次計画制が同年5月から発足、審査室がその目標達成に向かっての計画と管理、情報の収集と発信など機能を発揮した。

 昭和33年は家電化が進み、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、この年の6月が「岩戸景気」始まりとされている。

◇八戸市日之出町に八戸出張所(現八戸営業所)を開設

 八戸鮫港は、漁獲水揚げ高が国内1、2を争う有力な漁港であった。その八戸市は漁業ばかりでなく、新港を中心として水産加工、鉄鋼、セメント、製紙等の臨港工業都市へと発展してきている。昭和38年7月には、新産業都市に指定されている。

 三田商店が八戸出張所を開設したのが昭和33年12月、JR鮫駅と港に接した土地に事務所を設け、油槽所業務が主となるものであった。この土地は松尾鉱山の製品積出し用であったが、輸送の変化により不要となったことから三田商店に買い求めを要請してきたものであった。しかるところ、以前から三菱石油では北東北に石油基地がないことから、油槽所を設けたいとする計画があり適地を求めていた。このことの合意により、地上施設を三菱石油の投資とし油槽所が竣工、三田商店が寄託油槽所の運営に就き、青森県南から岩手県北一帯にかけ燃料油の供給を開始したのである。

 翌昭和33年4月には、直営鮫給油所を同敷地内に設け、営業を開始した。鮫漁港に往来する車への給油が主力となる。その後、セメントの販売を手がけた。磐城セメントの主力工場の一つである八戸工場の膝元、三田商店八戸出張所の営業の柱となった。

◇仙台市定禅寺通りに仙台出張員事務所(現仙台支店)を開設

 伊達藩の城下町仙台は、昭和20年7月10日の空襲で市内中央部と数多くの史蹟を焼失するという大きな惨禍を被った。焼失家屋11,642戸、死者911名を出すなど、街中が火の海と化した大惨事であったという。

 戦災復興の手始めは道路整備と区画整理であり、東西方向で青葉通り、広瀬通り、定禅寺通りの三大通りを36メートルに拡幅、南北幹線を5番丁通り、2番丁通り、晩翠通りなど街路樹の豊かなメインストリートとなった。狭くて迷路のような城下町の道路を、多くの障害を乗り越えて造り替えたことが、近代都市へと飛躍した鍵であったといわれている。 軍隊と文教の町といわれた仙台が、戦後推進された東北地方の開発とともに経済.・行政・学術文化の中心都市へと、目覚ましい変貌を遂げてきた。

 三田商店が仙台市内に事務所を設けたのは、昭和34年4月定禅寺通り商店街「よねたけ書店」の2階であった。宮城県庁など官庁街に近いことが、事務所選定の決め手になったようだ。秋田支店から越中金四郎氏が所長で就任、よねたけ書店の娘を事務係に採用しただけの少数態勢でセメントの販売を主とした出張員事務所であった。

 この頃の状況としては、先ず第一に磐城セメント社が昭和27年に増産計画を進めていたところ、東北開発岩手セメント工場が昭和32年6月に完成したことから、市場での販売強化が求められるところとなった。

 一方、仙台空港が昭和32年4月に開業、国鉄東北本線の仙台までの電化が昭和36年3月で終わり、昭和38年7月に新産業都市に指定されるなど、仙台市発展に向かっての布石が着実に敷かれてきた。

 旭硝子では、昭和37年8月仙台駐在員事務所を開設。翌年4月仙台支店に昇格して販売基盤の拡充に乗り出している。

 三田商店仙台出張員事務所は、昭和38年4月を持って本店扶翼から独立し、仙台出張所となった。少数社員の構成であるが、セメントに加え板ガラスの販売を始めた。

◇資本金を4,800万円に増資

 昭和39年、資本金を4,800万円に増資する。

 この年は戦災から復興した日本を世界にアピールした年でもあった。それは、5月に世紀の難工事といわれた青函トンネル着工の第一歩を踏み出し、10月には東海道新幹線の完成で夢の超特急が疾走、同時に東京オリンピックの成功を見るなど日本の経済力や技術力が高く評価された意義深い年であった。

◇仙台市立町に仙台出張所を移転

 磐城セメントから住友セメントに社名変更となったのが昭和38年10月、同社仙台支店の業務拡大に伴いオフィスビルへ移転することが決まり、それまで使用の土地建物を昭和40年12月で譲り受けることになった。これが立町五番地(昭和45年2月、国分町1丁目に地名変更)広瀬通りの三田商店現在地であり、昭和41年3月で定禅寺通りから移転する。

住友セメントから譲受けた仙台支店旧店舗

◇盛岡市中央通に本社新社屋竣工

 盛岡市の区画整理事業の計画に応じ、三田本店社屋の取り壊しを決め新築に踏み切った。地下1階、地上4階建ての自社専用ビルで円筒形の階段棟を隣接した斬新な設計で昭和44年12月竣工した。

現在の本店 昭和44年12月竣工[令和2年4月撮影]

 この本社ビル完成を記念して臨時株主総会を開催、三田義一社長からこの機会に退任の動議が出された。これからは若い人達で一致協力して社業の発展に努めて欲しいという突然の意向表明であった。驚きとともにその英断に恐縮するばかりであったが、直ちに三田義清取締役が満場一致で後継者に推挙され、ここに二代目新社長が誕生したのである。

 二代社長三田義清は大正13年8月生まれ、慶応幼稚舎に入学し戦争による中断があったが慶應義塾大学に学ぶ。学徒から海軍に入隊、滋賀県大津市の海軍航空隊基地で終戦を迎え、直ちに慶應義塾大学に復学した。昭和22年10月同大学経済学部を卒業して三田商店に入社、同時に三田合資会社代表社員に就任する。

 昭和28年9月に英国オックスフォード大学に留学、2年間の勉学を終えたのち欧米各地の経済情勢を視察して昭和30年12月に帰国する。

◇小樽出張所を閉じ札幌支店に併合

 "一起し千両"と言われた鰊は昭和27、8年の豊漁を最後に幻の魚となり、小樽近海漁業の繁栄は影をひそめてしまった。天然の良港に恵まれ栄えてきた商都小樽は、その基盤をなしていた金融、船舶、商社等の機関が札幌に移転して地盤沈下を来した。石炭産業の退潮や物流の変化が、その根底にあって影響をもたらしたと思われる。

 三田商店小樽出張所は、昭和45年6月末を持って43年間にわたる営業の幕を下ろした。交通網の発達で、小樽商圏を札幌支店が掌握し万全を期し対処したことは言うまでもない。

 小樽の繁栄を物語った運河に、埋め立ての計画が持ち上がり、壊滅すると思われた直前になって、保存の声が高まり生き残ることができた。それが幸いして今や、石造倉庫群とともに観光資源として復活、"小樽の運河"が本来の役割とは異なるものの、別の角度で使命を果たしている。

◇大阪出張所を大阪支店に昇格

 昭和52年9月、出張所から大阪支店に昇格する。山陽新幹線がさらに西へと延び博多まで開通したのが、昭和50年3月であった。高速鉄道が大阪以西に高付加価値をもたらした。近畿圏ばかりでなく、九州までの大きな市場を背景に業績が充実した。

◇設立50周年記念を開催

 株式会社三田商店が昭和4年5月に設立して満50周年を迎えた。昭和54年11月3日に盛岡本店で記念式典を挙行、現役を勇退された先輩並びにその関係者、勤続25年以上の永年勤続者と夫人など多数の臨席を得て祝賀会が開催された。50年を一節として、先人の遺徳を偲び将来に向かって心も新たに飛躍することを祈念する意義深い日となった。以後、この永年勤続者表彰制度を継続している。

50周年記念式典での二代社長三田義清の挨拶

本日はおそろいで御出席いただきありがとう存じます。

三田義正翁が明治27年三田商店を創設されてから八十有五年、昭和4年株式会社に組織変更をしてから50年になりました。顧みますと創業の明治27年は日清戦争の起こった年であり、その後明治37、8年の日露戦争次いで第一次世界大戦を経て大正12年には関東大震災がありました。全社組織に改めました昭和4年は昭和2年金融恐慌に端を発したパニックのまっただなかにあり、昭和6年の満州事変を契機として戦時経済・統制経済へと移行して昭和16年第二次世界大戦大東亜戦争に突入。昭和20年終戦を迎えたわけです。

戦後の混迷時代から昭和26年サンフランシスコ条約が締結され、次第に経済も回復をして30年代後半から高度成長を謳歌し48年の第一次オイルショックから安定成長時代になって来たことは皆さんが御承知の通りであります。

明治、大正、昭和にわたる波瀾に満ちた日本経済史の中で、三田商店も明治31年導火線工場の大爆発、明治33年秋田県十二所の爆発、明治37年津軽海峡での高島丸の撃沈、40年函館の大火、新しくは昭和25年板橋火薬庫の爆発、46年秋田の黒ヘル事件等々幾多の困難に遭遇しましたが終始一貴不屈の精神を持ってこれを克服してきました。

取扱商品も火薬銃砲で始まり、当時はサンタヒグスリテッポウミセ(三田火薬銃砲店)と呼んで内丸通りを通る方々がショーウィンドーの鉄砲を見て行かれたと聞いております。その火薬銃砲も現在では扱高の20%位を占めるにすぎず、その他セメント、石油、ガラスの部門が大きくなりました。

常に信義を守り誠実を尊び社業の発展に努めて今日の三田商店を見るに至りました。皆さんのご努力に対して深く感謝する処であります。

本日は50周年に当たって創業以来御尽力を頂き三田商店を今日あらしめた数多くの先人の御功績に敬意を表し追悼法要を営みました。一方25年以上勤続の皆さんにその御苦労に対して感謝申し上げて永年勤続表彰を行う次第です。

三田商店では大正の初めから10年勤続表彰を行っており、第1回には工藤保吉、松井源五郎両氏が表彰を受けておられます。その後昭和15年に第10回の表彰(株式会社組織変更後第1回)を今日と同じく11月3日に行っております。この時は14名の方が表彰を受けておられ、ここにおられる小田島次郎、浅沼季三君もそのときに表彰されております。この第10回を最後として戦争になったため表彰は行われず戦後何回か表彰復活の話はありましたが実現を見ずに今日に至りました。

本日創立50周年を迎えるに当たり、之を機に25年勤続の方を永年勤続者として表彰致すことに致しました次第です。今回はその第1回ですので実に46名の方が表彰を受けられるわけです。まことに御目出度く御祈申し上げます。

これは皆さん御自身の精進御努力は勿論ですが、その背後にあって皆さんを時には激励し時にはやさしくなぐさめる夫人の内助の功も忘れるわけには参りません。御本人に対すると同様奥さんに対しても御礼申し上げ又御祝を申し上げる次第です。

今後ともお揃いにてますます御健勝で御敬愛なさって一層の件さんとご検討を祈る次第です。

◇秋田市大町三丁目に秋田支店新社屋竣工

 老舗が集まり栄えてきた大町2丁目商店街が、近年その活力を失い地盤沈下を見るに至った。そこで、辻平吉氏を代表とした商店経営者たちが、集客力の強い有力企業を核とした大型店舗を建設して、かつて賑わった活気を呼び戻そうという大町ニューシティ構想が持ち上がった。三田商店所有地を含めた建築構想であり、民間活力で推進しようというもので、昭和51年4月熱意の込もった交渉を受ける始まりとなった。協力要請は三田商店も参加した共同ビルの建築を行うも可、あるいは代替地提供も可であり、大町再開発に是非とも協力願いたいという熱っぽいものであった。

 三田義清社長は、秋田経済界の有力者達からの要請に対し如何したものか熟慮、専門家の意見も徴し検討に検討を重ねた結果、地域社会のニーズに応えずばなるまいと昭和54年12月仮事務所に移転、翌年5月土地譲渡契約の運びに至った。大町現店舗の住居部分に一尺幅のケヤキが梁に使われているなど堅牢な骨組みであったことから、それを牛島土地に移築して記念住宅に活用を図り、昭和55年7月竣工した。

 昭和56年は、極めて画期的な年になった。それは、大町再開発ビルがかねてからの期待を担ってオープンしたことであり、新秋田空港が完成したことである。人の流れが変わり、地域商工業者に活力をもたらしたと、高い評価を得た。特に意義深いことは、秋田支店新社屋の竣工である。着工して1年後の昭和56年12月8日の落成である。新社屋所在地の大町三丁目は、金融機関、テナントビルの集まるビジネスゾーンであり秋田銀行大町支店跡地であるが、昭和3年に三和銀行の前身山口銀行秋田支店が開業したところでもある。

現在の秋田支店 昭和56年12月竣工[令和2年2月撮影]

◇資本金を1億2,000万円に増資

 昭和57年2月、経営規模の拡大に即し、資本金を1億2,000万円に増資する。

 同年6月に東北新幹線が開通し、仙台、盛岡などの都市が首都圏と高速鉄道で結ばれ波及効果は極めて大きくなる。

◇東北化学工業㈱が岩手・秋田の生コン工場を継承し製造を担う

 昭和58年5月を持って、盛岡・秋田の両生コン工場を、「東北化学工業株式会社」に委譲した。生コンの特性上から商社機構と異なるため、かねてからの"製販分離の原則"に従い、生コン製造部門を分離独立する。

◇東北支部の開設

 昭和58年6月に三田商店東北支部を仙台出張所に設けた。主要メーカーや取引先各社が仙台に出先支店を設けていることから、迅速かつ密度の濃い折衝が求められる時代となり、盛岡本社・東京本部・東北支部・北海道支部のネットワークを強化し実効を上げる狙いであった。

◇札幌市中央区南一条西九丁目に札幌支店新社屋竣工

 三田商店札幌支店の周辺も刻々と変貌、十字街にマッチした大型ビル構想を呼び掛けられるに至り、代替地の可否など選択を迫られることになった。求めた土地は、駐車スペースも確保し得る格好な角地で、直ちに自社ビル建設に向かって取り組み、翌昭和58年10月竣工した。

現在の札幌支店 昭和58年10月竣工

◇三盛石油㈱(盛岡市)を設立し、給油所の運営を譲渡する

 昭和60年に入って直営給油所を統轄する2社、盛岡に三盛石油株式会社、札幌に北盛石油株式会社をそれぞれ設立した。盛岡、秋田、八戸の5給油所を三盛石油へ、札幌、室蘭、釧路、函館の5給油所を北盛石油へ同年5月移管した。卸売と小売りの混在を避け、給油所としての経営力を増強するのが目的で、かねてからの構想を実現したものである。

◇三代社長に三田義三が就任

 昭和60年12月に二代社長三田義清が急逝。故義清社長は、経営の実務に豊かな見識を持ち農林、建築、医学などにも造詣深く、またその情熱とエネルギッシュな行動力に畏敬の念断ち難い人であった。

 臨時取締役会で故義清社長の実弟である三田義三取締役が三代社長に選任され、次の時代に向かって前進することになった。

 三代社長三田義三は昭和7年生まれ、慶応義塾大学を卒業して昭和31年4月三田合資会社に入社、農林の勉学のためドイツを主に留学したのちヨーロッパ視察を終えて業務に就いた。その後、昭和54年7月に株式会社三田商店の取締役に就任する。

◇函館市田家町に函館支店新社屋竣工

 函館市田家町は、昭和32年までの約45年間火薬庫の使命を果たしてきたところである。そこに昭和46年8月函館硝子センターを完成させた。さらに、袋詰セメントの需要に対応するための倉庫を建設した。ガラスに次ぎセメントを加え、建設資材の物流機能を高めようとするものである。

 この田家地区が、年々道路や下水道等の公共施設が整い、住宅建設も進んできたこともあり、昭和53年10月田家給油所が竣工した。住宅アルミサッシ組立て需要増に応じ、ガラスセンターに隣接のサッシセンターを昭和54年9月に設けた。

 一方、暖房油の供給円滑化を図るため、田家石油配送基地を昭和60年11月に完成した。天候の変化に左右される需要に即応できる施設であるだけに石油販売店など得意先の評価が高いものであった。この結果、田家にガラス、サッシ、セメント、石油等の取扱主要商品がその配送機能を集結したことになり、付加価値が高まったことは言うまでもない。これら営業の核となる社屋が必要となるのは明らかで、昭和61年11月鉄骨造2階建で竣工し、末広町から移転した。

 この土地は終戦後押し進められた自作農創設特別措置法の投網を掛けられるという苦難を経てきた所でもあった。このことで約75%の土地を失ったが、それがすでに農地開拓の目的から逸脱した方向に変わっているようで、強制買い上げによる犠牲は何であったろうか、釈然としないものが残る。

現在の凾館支店 平成28年2月竣工