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 岩手県盛岡市に本社を置く土木建築資材及びエネルギーの総合商社

取組内容EFFPRTS

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 三田グループが本格的に森林事業を始めたのは、明治43年9月の盛岡大洪水の後からです。この洪水は数日にわたる豪雨によって中津川が氾濫したため、盛岡市内の橋梁流出、護岸決壊、家屋倒壊など大惨事となり、言語を絶するものでありました。この時、創業者三田義正は水源地帯に植林して、治山治水を図ることが重要であり、かつ緊急を要することを痛感し、雨水の突出を防ぐため米内川、中津川の流域に沿って荒廃地を買い求め、自ら山小屋に泊り込み陣頭指揮をとって造植林を実施しました。 現在、この流域の水は盛岡市民の水瓶として水道に利用され、また、盛岡市内を流れる中津川の清流は市民の憩いの場となっております。 三田グループ社有林は環境を考えながら自然林と施業林(2,000ha)の調和を保ち次世代に継承するため最大限の努力を続けています。

 鍋倉事務所(盛岡市浅岸字鍋倉)にて
左から百目木長次郎・三田義正・小野貞三・細越長蔵
(昭和5年秋)
 
鍋倉事務所(盛岡市浅岸字鍋倉)にて
後列左から三田義正・牟岐風Y・小野貞三・細越長蔵
(昭和7年)
  
投沼山林造林地育成状況
右写真の手前はJR山田線
(昭和7年)
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  地域社会への奉仕として、創業者三田義正は人材育成を目的に大正15年4月、財団法人岩手奨学会を設立して岩手中学校を開校しました。現在は岩手中学校・岩手高等高校となり学究者・経済人・実業家等多くの逸材を送り出し各分野で活躍しています。石桜同窓会
また、三田義正は実弟三田俊次郎氏の経営する岩手病院や岩手医専(現岩手医科大学)への惜しみない援助で岩手の医学界発展に尽力しました。
三田グループは創業者三田義正の志を受け継ぎ今後も人材育成に努力を続けます。syosai

 
 

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  盛岡大通と菜園は昭和初期まで旧藩主南部家所有の田圃と盛岡農学校であった。
創業者三田義正は、昭和2年8月に南部土地株式会社を設立し、菜園地区の埋立てを行って現在の大通と菜園の市街地を誕生させました。
また、義正は街の発展策として昭和10年4月に株式会社中央映画劇場を設立し同年8月に映画館を開館しました。これが今日の”映画館通り”の始まりです。
映画館通りは全国的にも珍しく約400mの通りに12(平成16年現在)の映画館があります。三田グループは、この映画館通りを盛岡市民の一つの文化ととらえ、株式会社中央映画劇場3館の経営にあたっております。syosai

   
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  盛岡不来方城の築城は慶長3年から寛永10年(1633年)の36年間かけて完成したと言われる。この築城にあたり中津川がたびたび洪水となって川岸を崩壊させることから、時の藩主が普請奉公の建議を受け建立したのが川留稲荷神社で今から約300年以上前の貞享2年(1685)落成の由緒ある古いお社である。
明治4年、廃社となって一時住吉神社に合祀となったが、この年の大洪水に堤防が危うく崩れそうになったことから、三田義魏(創業者義正の父)が提唱して加賀野久保田の旧位置に再建立し崇敬した。
明治31年4月9日の三田導火線工場爆発により被災、川留稲荷神社も類焼してしまうが直ちに神殿を再建して寄進した。しかし、明治43年9月3日またまた大洪水が襲来して川留稲荷神社が流出してしまうが、御神体は無事発見されたので、店主義正は所有地を分割して社殿を造営。大正5年11月、この所に遷座したのである。
その後、川留稲荷神社の維持費は三田家が支出しているが、現在でも7月28日にここの境内で行われる祭典は三田グループが中心となって行っている。

 
川留稲荷神社玉垣奉納式
(昭和3年7月23日)
 
川留稲荷神社奉納式
(昭和9年11月3日)
 
川留稲荷神社社務所開き
三田義正  三田サメ
(昭和9年11月3日)
 
川留稲荷神社夏季例大祭に鳥居奉納される
三田とみ  三田義一
(昭和43年7月28日)