三田導火線製造所


三田導火線製造所は昭和48年9月をもって閉鎖、明治28年創業以来78年に及ぶ長い歴史の幕を閉じた。株式会社三田商店が辿った道を想起する時、三田導火線製造所との深い関連を除外することが出来ない。
三田導火線製造所の製品は、東洋一の金鉱山といわれた北海道の住友金属鉱山鴻之舞鉱業所をはじめ、東北地区において三菱金属工業尾去沢鉱業所、古河鉱業阿仁鉱業所、日鉄鉱業釜石鉱業所、松尾鉱業松尾鉱業所、ラサ鉱業田老鉱業所、大日本鉱業立又鉱業所などの主要鉱山に納入した実績は特筆してよいであろう。
特に、昭和45年には日鉄鉱業本社から同社全事業所への納品指定を受け、前記釜石鉱業所のほか九州地区津久見、船尾鉱業所、四国では高山鉱業所まで一手に納入してきたことは高く評価できるものであった。
     
   [粉火薬混転室内の横軸式V型混転機]                      [導火線製品のラベル]

明治28年の春、盛岡市加賀野磧町(当時、加賀野春木場の辺りを通称カワラ町と呼んでいた)の中津川沿いに導火線工場  を建設、秋田県荒川町から秋山惣次郎を責任者に迎え、導火線の製造を開始する。
明治31年4月9日、導火線工場は順調に実績を上げてきたところ、爆発事故が起こり、死者1名・負傷者3名・建物壊滅という大事故となる。
爆発事故の原因は、近くの子供による手製銃の火炎が建物の連子窓(れんじまど・木または竹を縦に並べた窓)の紙に燃え移ったのではないかと言われている。
店主 義正は、この事故で犠牲者が出たことに心を痛め、遺族に出来る限りの弔慰を尽くし、この4月9日を「爆発記念日」と定め、以後毎年工場の休業日として犠牲者の霊を慰めかつ従業員の保安意識を高め、再びこのような惨事が起こらないよう祈願する法要を盛岡の久昌寺で執り行っている。今日もなお、この志を代々継承して法要を続けている。
導火線の製造は、この事故で一頓挫を来たすが、店主はこの機会にこそ最も安全で最新の技術と設備の整った工場の再建を決断する。明治33年、秋山惣次郎が辞職した後の責任者に久保田彌左衛門を採用、同氏は荒川鉱山で秋山と共同で導火線を作っていた専門家である。そこで店主は、研究熱心で有能な久保田を一年半にわたって佐渡の相川に派遣し技術習得に専念させた。苦心惨憺の末、新しい技術を修得した久保田の提言を取り入れて新工場の建設に着手する。
明治35年5月、岩手郡浅岸村東山(現在の盛岡市東新庄二丁目)に新工場竣工する。
工場の機械は手作り、すべて手動式であったが従来の機械とは比べようもないほど著しく進歩したものであったという。生産能力ばかりでなく品質も向上、翌年の明治36年7月の第五回国内勧業博覧会において「導火縄褒賞」を受賞するに至った。
[明治36年7月 三田導火線褒状]

昭和4年5月、株式会社三田商店に組織変更となったことに伴い、工場も法人組織に移行し火薬類製造営業許可を取得する
昭和8年、自動製造機を年次を追って増設し、昭和10年には工場建物の増築を行う。
昭和12年6月、日華事変が勃発、やがて戦火は中国大陸へと拡大していくことになるが、この事変後に統制経済体制がとられる。
まず第一に輸出入品等臨時処置法が発動し綿花輸入数量と綿糸生産数量が大幅に制限される。翌年には導火線の主要材料である綿糸が配給割当制となり、県知事に申請してから入手する時代となる。
昭和16年12月、導火線の規格が統一され、15m巻を廃止し一束10m巻と決まったことから、工場の巻取りドラムを改造する。
昭和20年8月、国内外で大きな犠牲を払って第二次大戦の終戦を迎える。
あらゆる物資が欠乏し世情混沌としたなか、火薬類の製造が認可されず再開不能のおそれがり、火薬業界全体にとっても死活問題であった。当時の日本火薬統制株式会社が窓口となって、火薬製造の必要性をGHQに対して粘り強く陳情を続けた結果、ようやく認可を得ることができた。
三田導火線製造所も昭和21年5月に商工省の重要指定品工場の指定を得て、GHQの製造許可を受ける。
続いて10月に日本工業火薬会によって生産能力数が決められるが原材料の統制で厳しい割当てであった。それは、実質稼動能力の65%に抑えられたものであった。
昭和25年5月、現行の火薬類取締法が、明治時代の旧法に対して新法として公布され、導火線製造工場危害予防規定をこの新法令に基づき作成して申請、昭和26年4月に認可を得る。また、同年7月に電気導火線の試作品が完成し、12月に通産大臣宛に製造許可申請を行う。
昭和28年7月、全国労働安全週間に際し岩手県内3,300ヵ所に及ぶ工場の中から選ばれ、「昭和28年度岩手労働基準局長賞・努力賞」を受賞する。
昭和32年10月、標準品の綿被覆品より高い耐水性のビニール被覆品が求められることから、工場を増設してビニール被覆品の製造を開始する。
燃焼秒時など高性能が要求され、競合の激しいなかを長尺の製造(切りロスが少ない)や燃焼秒時の延長など、大口需要家のニーズに十分対応できた。
昭和34年8月、札幌丸井デパートに於いて「産業火薬展」が開催され、三田商店もメーカーの一員として参加。導火線の構造、性能、用途など模造品の展示或はバネルで掲示した。


[産業火薬展(昭和34年8月~30日於札幌丸井デパート7階)]

この火薬展は、国内産業を下支えしている産業火薬の歴史、使命、保安等について説明するばかりでなく、ロケットの実物を置き、未来に向けての広がりを啓蒙したものである。
昭和45年8月、導火線の荷姿は、10mものを大中小のドーナツ型に巻き箱詰とするが、LPレコード型に巻き込むものも出回ってきたことから供給態勢をとった。製品の全体容積が小さくなって包装材が少なく仕上げることになる。
日本産業火薬会の統計資料によれば、導火線の国内全体生産高のピークは昭和28年で、年間82,346箱であった。その後、電気発破の普及により減少傾向を辿り、20年後の昭和48年には8,835箱に激減、ピーク時の10%強という需要となった。掘削技術の進歩に伴い、制度の高い発破が求められることから導火線が減少、電気雷管に移行するのは時代の変化と認めざるを得ない。
一方では、三田導火線製造所の周辺も都市化が進み、昭和44年頃から宅地化が著しくなり、工場閉鎖の決断を迫られる環境となった。
昭和46年11月、門司港より、導火線を海外に輸出する。
自社製導火線を海外に輸出したいとういうのが、長い間描いていた夢であった。是非実現したいものであったが、実績がないため交渉の糸口を見い出せず難しいものであった。輸出委員会社の助言もあって、タイ国バンコクの商社ターム・エンジニアリング社に対して、日本貿易商社を通じ輸出交渉を持つ段階に到達することができた。外装は木箱とし、板の素材や品名表示等は相手国の基準に合わせ、内装もターポリン紙4枚使用など万全を期して、昭和46年9月ようやく契約にこぎつけることができた。同年11月から4回に分け船積み輸出する。


[輸出用外装荷姿]

昭和48年9月、通産省主催の爆破実験が岩手山麓で実施され、導火線の燃焼実験に三田導火線製造所の製品を資料として提供し、有終の美を飾る。その月末をもって火薬類製造営業廃止届を提出し、三田導火線製造所の幕を閉じる。