三田商店120年の歩み

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カタログ1

三田火薬銃砲店時代に印刷したカタログである。猟銃、猟用火薬、猟装品の説明書であるが、大正末頃のものである。外国銃の性能、猟用付属品など種々印刷されているが、殊に岩鼻火薬製造所製の猟用小粒火薬の説明が興味深い。

カタログ2

昭和5年9月発行の銃砲および付属品の「卸値段表」である。その当時、東京支店の住所が堀江であった。ベルギーFNブローニング自動銃の卸価格が68円であった。

カタログ3

昭和26年のカタログである。戦後の貧困から脱却しようと力強く動き出した時代で、猟銃・空気銃・付属品を積極的に売り込むためのものであった。価格表は不明であるが、カタログの内容は、グリーナー式元折銃、ダイヤモンドM印空気銃の紹介である。

●三田火薬販売所のはじまり
 
三田家の当主は代々南部藩士であった。
 明治維新の廃藩により南部藩士は警務職員、私塾の師範、農蚕業などの職業に転身する例が多かった。
 南部藩士 三田義魏(よしたか)の長男義正は、明治20年に県会議員、その後、市会議員にも当選して岩手県政、盛岡市政のため尽力してきたところであったが、議員在任中の明治27年、盛岡市積(カワラ)町での火薬商営業権を屋敷ごと譲渡したいという話を聞くに及び、将来に向かっての選択を迫られるところとなった。
 政策論争に明け暮れる生活より、地に足の着いた実業家に進むことを強く望む母親 キヨの熱意もあって決断、火薬販売の官許を取得して商業の道を選んだのが明治27年11月、義正34歳の時であった。
 譲り受けた火薬営業権と屋敷は、盛岡市加賀野春木場字六一番地、火薬営業人 新田目恒治からであった。
 磧町(当時、加賀野春木場の辺りを通称カワラ町と呼んでいた)の屋敷を一部改造して、さっそく火薬の看板を地元の書家 山口剛介の筆により作成して掲げ、販売を開始した。この看板は幅1尺縦6尺の立派なもの。「三田火薬販売所」という大看板で、家族挙げての応対ぶりから繁昌をみたという。
 山口剛介は安政5年(1858年)盛岡に生まれた書家で、明治9年 警察御用係を振り出しに、盛岡中学、岩手師範学校などの書道教師として長く勤め、また諸々の社寺の掲額、県庁や学校などの看板を揮毫した。詩・俳諧をたしなみ、酒を好み雄渾な筆勢は秀逸であった。書を求める人があれば酒を得て好んで筆を握った人であった。
 明治27年当時、磧町屋敷に居住していた高橋有三氏は、義正店主の指示により山口剛介宅を訪ね揮毫を頼むことになったが、「山口さんはなかなか書いてくれないから、酒一升持って行け」と言われ、酒一升と看板の板を持ってお願いしたら即座に快諾してくれたそうで、 高橋が大きな硯に墨をすり山口に健筆を握ってもらった。その大看板を担って帰ったところ、義正店主も大変喜んだという。

●商号を「三田火薬銃砲店」に改める
 
明治33年、三田火薬販売所はその後「三田火薬銃砲店」に商号を改め、現在地の盛岡市内丸三四番戸に店舗を移す。

本店店舗
[昭和30年代後半撮影]
 猟用火薬の販売から始まり、明治28年尾去沢鉱山にダイナマイト50箱を納めたのが爆薬販売の端緒である。この当時の各鉱山は好景気時代であり、交通の不便な鉱山には馬車で運搬する以外に方法がなく、地元の有利性が大きく奏効し販路の拡大につながった。
 尾去沢鉱山に、義正夫人の親戚にあたる人が勤めていたことから鉱山長と契約を結び、堅実な商いが鉱山長の信用を得て磐石の基礎を築くに至った。
 その後、鉱山長が荒川鉱山に転じたことから販路は広がり、漸次、小坂鉱山、鹿角郡の古河鉱業所不老倉鉱山、阿仁鉱山、院内鉱山に及んだ。さらに山形県の永松鉱山、大畠鉱山という順に基礎を固めつつ販路を四方に伸ばしたのである。
新店舗には、前と同じく書家 山口剛介の筆太の字で、横二間ばかりの大看板を掲げ、往来の人の目を瞠らせたものであったという。

●函館区会所町に函館支店を開設
 函館区会所町五七番地で、井上銃砲店を経営していた井上嘉助が、三田火薬銃砲店からの仕入れのため、たびたび盛岡に来訪していた。
 明治30年代の当時、函館で同業者 蔦谷銃砲店と競合を続けていたことから、徐々に勢力が弱まり遂に経営を維持することが難しくなり、三田に対し経営を譲渡したいとの相談を投げ掛けてきたのが事の始まりである。
 明治32年、相当額の権利金を支払って同店を譲り受けたことで、ここに三田の支店第一号となり、北海道進出の足掛かりとなったのである。しかし、当初は営業許可の交付を受ける都合もあり、井上嘉助名義のまま営業を続行したのであった。
 明治33年、三田火薬銃砲店函館支店に名義を改めたが、井上嘉助や番頭小原岩吉を引き続き雇用、責任者不在のため業務に弛緩を来す状態であった。そこで、一線を画したのが明治34年9月15日で、在庫品、商品代価差引残金、馬車代などの未払経費を同日付の引渡書により引き継ぎを行ったのである。店主 義正は、北海道に鉄道工事が始まりダイナマイトの需要が増大することに着目弛緩したまま放置を許されず将来に向かって基盤を確立するため、遂に母堂に経営監督を懇願したのであった。母堂は快諾、函館に渡り店務監督の任に当たったのが明治35年、59歳の時であった。
 当時、函館は海運ルートによって北海道全域を商圏として掌握していた。それだけに、海産物・生活物資の集散地として繁栄していた。三田函館支店の営業も北海道全域を対象としての販売であっただけに多忙を極め、母堂が陣頭に立ち店員教育から事業全般にわたって苦労を重ねた。毎日の食事の世話、店先に散らばる荷造り材の整理など裏方の仕事にも精を出し、業績の拡大に努めたといわれている。

明治40年7月、敷地内に火薬貯蔵所を建てた時の完成検査證。旧法の許可基準によるものであるが、保安物件や保安距離の表現など歴史を感じさせる内容である。「汽船の航路は附近になし」など、如何にも港町らしいく面白い。
●日本橋堀江町に東京支店を開設
 明治27年、店主 三田義正は、三田火薬銃砲店創業の後、義弟 菅啓助を伴い東京に滞在して情報の収集や商品の仕入れを行っていた。その頃、日本橋の旅館を常宿にして行動していたが、明治30年頃になって東京芝区三田四国町に菅啓助経営の支店を設けた。しかし、実際は個人の別経営で、狩猟用火薬やその付属品の小売りと三田への供給口銭で独立していたものであった。東京支店の店舗として初めて設けたのが明治34年、現在地の向かい側にあたる日本橋区堀江町四丁目三番地である。初代東京支店長に菅啓助が就任した。
 明治40年10月に発行されたという日本橋区市街地図によれば東堀留川に架かる親父橋と思案橋の中程に、当時の三田東京支店があった。
 郷土史によれば、東掘留川は日本橋川から引いてきている川で、河岸には米、塩、醤油、鰹、タバコなどの多くの商品が陸揚げされ土蔵が立ち並び、荷車などが行き交う活気に満ちた地区であった。
 親父橋は、日本橋・江戸橋と芳町・人形町を結ぶ古くからの橋で、いわば商いと交通の要所であった。木橋であったものが、関東大震災後の大正14年に長さ33メートル・幅22メートルの鉄筋コンクリート橋に架け替えとなった。その後、昭和24年東堀留川の埋め立てが始まり、親父橋も消えてしまった。往時を偲ぶものは「警察署親父橋派出所」の表示名くらいなものである。
●津軽海峡でダイナマイト積載船が撃沈される
 明治37年2月、日露戦争が勃発。日本海にロシアのウラジオストック艦隊がしきりに出没するようになり、青函連絡船も欠航するような状況で、7月には津軽海峡を突破して太平洋を房総沖まで南下するなど、日本人を震憾せしめたものであった。
 たまたま、この年の8月、三田火薬銃砲店のダイナマイトを大量に積載して横浜か函館に向かって航行中の東京湾汽船会社の高島丸が津軽海峡でロシア艦隊に撃沈され、莫大な損害を被った。海上保険を掛けていたが、戦時の特約が無く保険は無効となってすべてが実損となり、店主 義正も如何がしたものか善後策に苦悩した。
 世間では、三田は再起不能であろうと噂をし、北海道ではこの撃沈でどうなるか大騒ぎとなっているなか、店主が決断し横浜に打電再輸送の指令を発したのであった。再び襲撃を受けないとも限らない状況下で、再輸送を決断したのは、常に一身の利害を顧みず相手の立場になって熟慮したものでこの結果は得意先の絶大なる信用を得るところとなり、北海道における三田の基礎を築くに至ったのである。
 ウラジオストック艦隊が津軽海峡を易々と突破した時、何故か函館山の要塞は沈黙したままであったというが艦砲射撃を受けず大した混乱もなく済んだのは幸いで、明治38年9月日露戦争は終結した。
●函館に英国ノーベル社の火薬庫を建設管理
この当時のダイナマイトはすべて輸入品で、ドイツや英国から輸入、英国ノーベル社の日本総代理店は横浜のモリソン商会であった。三田は英国ノーベル社製品を取り扱っていたことからモリソン商会の小室文夫 支配人と協議、函館区上磯郡久根別に三田が協力して火薬庫7棟を建設、明治37年9月竣工、「英国ノーベル会社ダイナマイト三田火薬庫」の看板を掲げた。
 この建設管理が、北海道の需要を掌握する基地となり、地盤を固める大きな戦力となった。さらに、明治41年5月、5棟増築して、火薬庫12棟という大きな基地となった。
 

英国ノーベル会社ダイナマイト三田火薬庫
THE GUNPOWDER GODOWN OF MITA AT KAMIISO ST.,HAKODATE
[明治41年5月撮影]
●函館区末広町に函館支店を移設
 明治40年8月25日、函館は大火に見舞われた。午後3時頃東川町より出火、折からの暴風にあおられて火の手が広がり、焼失戸数13,000余戸で、函館の大半が焼野原と化した歴史に残る大火となった。このため、三田火薬銃砲店函館支店も類焼してしまった。その復興のため、函館区末広町三一番地に、建築資材および大工職人を盛岡本店より応援を得て店舗を新築した。引続き、敷地内に火薬倉庫を竣工したのが翌年の6月である。
 この当時、新聞に広告をたびたび出して宣伝した記録がある。それは、猟銃のほか、ピストル、ダイナマイト、坑山火薬、火薬縄類などを並べたもので、一般紙『函館毎日新聞』であることなど隔世の感がしてならない。その後、カーバイトやガスランプが加わって掲載されるようになったのが明治43年以降で、漁業用資材として需要が拡大してきたものと察せられる。
 さらに明治44年、函館区末広町四八番地に土地を求め店舗および火薬倉庫を新築し、翌45年8月に移転。従来の建物を三井物産出張所に譲渡した。この時の移転広告を、大正元年9月28日付の函館毎日新聞に載せている。
     
   函館支店 旧店舗(函館区末広町四八番地)
この新しい住居は"函館の十字街"と呼ばれる商店街で、路面電車が大正2年に開業し十字街で交差することから繁華街として一層賑やかとなった。函館区田家町の土地を求めたのが明治45年3月、直ちに火薬庫4棟を建築した。大型のものではなく、床面積一坪の煙火火薬庫、二坪の雷管庫のような小型であった。
 
●磐城セメント設立と同時に特約店となり、セメントの販売を開始
 三田商店の業歴を繙いた場合、セメントの販売を始めた年代もかなり古く、磐城セメント社の創業と時を同じくしているという。
 火薬販売の業を興した明治27年から14年後のこと、爾来今日まで長い年月を経て業績を積み重ねてきたところであるが、その生い立ちとその後を知ることも極めて意義深いものと思われる。それはまず、磐城セメント株式会社の創立に三田義正店主の義弟 菅啓助氏が、同社発起人の一人として参画したことである。
 同社は、東京の実業家 岩崎清七、横浜の吉永仁蔵、八茎鉱山合資会社 広瀬金七社長、鉱山業 西村準三郎などの七氏が創立委員、このほか福沢桃介、菅啓助の両氏を含む京浜地区や磐城の経済人34名が発起人となって、資本金150万円で明治40年11月29日設立したのである。事業の目的は、八茎鉱山の石灰石を活用するセメント工場の建設にあった。
 福島県石城郡大野村(現在のいわき市四倉町)の八茎鉱山は、横浜オット・ライメールズ商会(広瀬金七社長〕と東京鉱山業 西村準三郎の共同経営で、銅鉱石採掘のズリとして大量の石灰石が出るなど、鉱区一帯は石灰石の山であった。
 磐城セメント株式会社の設立広告には、発起人34名の一覧表が記載され、その中に、「発起人菅啓助 日本橋区堀江町四丁目三番地(生年慶応3年)火薬商三田商店社長三田義正の義弟、台湾殖産重役」と紹介されている。
 菅啓助は、三田火薬銃砲店創業時より義正店主の片腕として常に行動を共にしてきた重鎮である。同氏は剛腹な性格の持ち主、三田東京支店を別経理で経営に当たっていたが、日露戦争に勃興した鉱山熱で身を乗り出した結果、その目算がはずれ、鉱山業失敗の体験を有している。このことから鉱山事業家との人脈ができたものか定かでないが、多方面にわたって知友の多い人であった。
 セメント工場の候補地は、初め久之浜であったが地元の反対があり、釜屋 諸橋久太郎氏の協力もあって四倉に決定した。竪窯全盛の時代であったが米国アリス・チャーマー製の回転窯を採用した国内初の原石焼成法で、明治41年10月から操業を開始したのである。この四倉工場が磐城セメント(後に住友セメントに社名変更)発祥の地であり、操業が三田商店のセメント販売元年となったと言っても差し支えない。
 セメントの品質も良く、連続生産されることから数量が年々伸びて、明治45年度には約17,259トンとなり、当初目標を突破した。また、当時の販売方式は特約販売店制であり、その中でも、
  いわき 諸橋久太郎商店
  青森  佐々木義満商店
  盛岡  三田商店
  仙台  東北糖業商会
  東京  塚本長三郎商店
  横浜  吉永仁蔵商店
といった代理店が販路の開拓に大きく貢献したと、往時を偲ぶ記事が「住友セメント80年史」に記述されている

●室蘭町に室蘭支店(現室蘭営業所)を開設し、ガラスの販売を開始。大正時代になって旭硝子㈱の特約店となる。
 三田火薬銃砲店が室蘭町に室蘭支店を開設したのが明治42年5月、この時室蘭で取扱いを始めたのがガラスであった。この時はまだ火薬類の営業権がなく、何を販売するのか決まっていなかった。
 義正店主は室蘭の将来性を洞察し、たとえ現状が不利であろうと意に介さなかったが、このまま無為に過ごすのも得策でなく、何を販売すべきが、菅啓助、松井源五郎の両氏と協議するところとなった。質屋を開業してはどうかなどという発案もあったが、店主は論外と一蹴して松井提案を採択し、ガラスの販売を行うことにしたのである。
 当時の室蘭には、ガラス業を営む者なく、また需要も広まっていなかったが、将来必ず伸びるものと予測し、東京から150箱のガラスを送り込み販売に充てたのである。これが、ガラス販売の始まりである。
 国産板ガラスが初めて製造出荷となったのが、明治43年1月以降であるから、三田の販売は輸入品から始まったことになる。
 板ガラスの供給を輸入品に頼っていたのでは国策上不利であり、しかも需要は必ず増大するとの見通しから、ロンドン大学で応用化学を学んだ岩崎俊弥が明治40年9月、不退転の決意で創設したのが旭硝子株式会社である。
 同社は兵庫県尼崎市に工場を建設。明治42年から本格生産に入り、翌年1月国産初の板ガラスがようやく出荷できる態勢にこぎつけたが、品質や価格面で輸入品に押され、苦況が続いた。
 ベルギー式人口吹法を導入して始まった製法を、機械製法に改めて新工場を建てるなど改良に努めた。しかるところ、大正3年7月に勃発した第一次世界大戦が国内産業に天佑をもたらした。ガラスの場合は、ガラス先進国ベルギーからの輸入が途絶したため、国産品に注文が殺到して一挙に好況に転じた。
 その後、胆振国有珠郡伊達村の小野庄之助から火薬の営業権を譲り受けたが、小野名義のままで住所変更の形式をとっていたところ、旭川の銃砲店が法律違反で失権したことからこれを譲り受け、火薬の営業と併せ願い出て許可を取得したのが、明治43年6月である。その時の火薬庫は、室蘭町母恋で小野名義の借地であり、明治43年名義変更を行なった。
 営業品目は、ガラスの販売に始まり、火薬、セメント、カーバイト等に広がり、販路を日高、十勝、北見へと遠くまで拡大し、販売高は函館支店を追い越し、札幌支店が開設される前まで北海道内最大の支店に発展した。
●札幌区南二条西三丁目に札幌支店を開設
 北海道庁の設置が明治19年1月、それ以来、札幌が北海道の行政の中心都市となった。その当時の札幌の人口が10,600人余で、5年後の明治23年には約24,300人に急増したという。明治時代の札幌は、官庁と軍隊と大学の町であり産業や経済から見た場合、函館や小樽には遠く及ばなかった。
 火薬は内地からの輸送で、主として船積みであったため火薬の消費地でもない札幌には火薬商が無かった。
 義正店主は、明治の終り頃から着目、札幌区南2条西3丁目6番地で火薬銃砲店を営んで居た矢原秋蔵の店を譲り受け、火薬商としての設備を整えて、明治44年3月20日に三田火薬銃砲店札幌支店の看板を掲げた。これが札幌支店の始まりであるが、当時は矢原秋蔵外一名の店員で、ささやかなものであった。火薬庫を設けた所は山鼻と呼ばれる南19条西14丁目であった。そこは通称西屯田通りに近く、屯田兵開拓の主要地であった地域で、先の敗戦までは周辺にリンゴ園や野菜畑が点在していた。