盛岡の市街化と南部土地株式会社設立

盛岡不来方城は、明治5年6月陸軍省に引き継がれたのち、城内の建物や樹木などの払下げが行われ、すべて取り壊されてしまった。その後は荒れた城址となったが、明治39年になって整備され、市民憩いの岩手公園として開放されたのである。当時、岩手公園の上から眺めると一面が水田で、都市というより田園といった風景であった。
三田義正は、常々市の発展について深い関心を持っており、盛岡を起点とした鉄道網が整備されれば必ず各種事業が興隆、人口も増加するものと予想していた。そして、このためには市区の整理も必要であるとし、まず第一に市の中央にある田圃も埋め立てて市街地化するという遠大な詐画を持っていたのである。ただ、この田圃は旧藩主南部家の所有に属していた。しかるに、南部家もまた市の発展のため障害となることを憂い、将来のため当該土地を開放する意向ありと言う。
この機をとらえて、三田義正は埋立て計画の決行を固めたのであった。大正15年のことである。三田義正は、市街の建設や経営を個人が独占するべきものでないとの理念から、法人組織にすることが妥当であると、同志の者と諮って昭和2年8月25日、基本金100万円の「南部土地株式会社」を設立したのである。
当該地は、原別邸前から御田屋清水に至る25,000坪の土地で、原敬氏から存命中に「あなたのカによって小公園を建設してはどうか」と勧められたこともあったが、市街地とすべきものと埋立てを決意したのであった。
 
現在の南部土地株式会社
盛岡市映画館通り
南部土地株式会社設立にあたり、同志の人々に諮った趣意書は次の通りである。

我ガ盛岡市ハ東北有数ノ都会デ、岩手県ノ首都デアリマス。ノミナラズ、今後数年ヲ出デズシテ市ヲ起点トスル鉄道網ガ完成スレバ各種事業ノ勃興、人口ノ増加等ニヨリ、益々発展ノ機運二向ウコトト想像サレマス。
然ルニ、翻ツテソノ市区ガ、果シテ斯ノ如キ機運ニ応ジ得ルダケニ整頓サレテ居ルカドウカト言フニ、遺憾ナガラ現在ノ処満足スベキ状態ニハナツテ居リマセン。就中、市ノ中央ニ田圃ヲ在スルガ如キハ、殆ド何レノ都市ニモ例ノナイコトデアツテ市トシテノ発達上、実二由々シキ障害ト言フベキデアリマス。
市ノ膨張力ガ現ニ郊外ニ向ツチ盛ンニ発展ヲ遂ゲツツアルノニ、カカル田圃ガ何故今日マデ依然残存ソテ居タノデアリマセウ。ソレハ、畢意此ノ田地ガ旧藩主南部家ノ世襲財産ニ属シテ居タ為ニ外ナリマゼンガ、同家二於テモ熟々当市ノ将来ニ鑑ミラレ近年其ノ筋ニ陳情ノ結果、遂ニソノ開放ヲ断行サレルコトニナリマシタ。就イテハ比ノ南部家ノ趣意ニ対シテモ該地ノ利用ヲ完フスルコト、別言スレバ市ノ人口増加ニヨル住宅難ヲ緩和スルタメ之ヲ市街化シテ以テ大盛岡市ノ建設ニ貢献スル事ハ最モ急務デアラウト存ジマス。
該地ハ盛岡駅並ニ上盛岡駅カラ約六町、河北ノ商業地タル材木町方面、河南ノ商業地タル肴町方面ヘハ何レモ四、五町ノ近距離ニアリ、且各官庁所在地トモ接近シ、正シク盛岡市ノ中央ニ位シテ居リマス。故ニ、比ノ地ヲ中心ニシテ四通八達ノ道路ヲ造リ、交通ノ便ヲ図ルトキハ、忽チニシテ商家櫛比、車馬絡繹スル一大市区ヲ現出スベキハ勿論、各商業地、官庁所在地等モマタ其ノ利便ヲ倍加スルコトハ恐ラク何人ト雖モ疑ヲ客レマスマイ。
コレ即チ、ココニ当会社ヲ創立シテ直接ソノ実現ヲ図ル所以デアリマス。
最初南部家ガ該地ヲ開放セラルルニ際シ、便宜上三田義正氏外二名デ譲受アリマシタガ、然シ市街ノ建設経営等ハ由来個人ノ独占スベキ事業デハアリマセン。少クトモ法人組織ニヨツテ遂行スルヲ妥当卜考へ、此ノ信念カラ当会社ヲ組織シ該地ヲ原価デ譲受ケルコトニ致シマシタ。カクテ、愈々新市街ノ建設二着手スベキ時期ニ到達シダ次第デアリマス。
県下ノ有志各位、願ハクハ当会社ノ趣旨ヲ御賛成アツテ速ニ予期ノ計画ヲ完成セシメラレンコトヲ希望致シマス。
扨テ本事業ハ上ノ如ク、モトヨリ公共的事業二相違ナイノデアリマスガ、一面之ヲ営利的事業トシテ観察シタナラバ如何デアリマセウ。
地価ノ漸進的騰貴ハ既ニ世界的共通ノ趨勢ト認メラレテ居リマス。彼ノ関東大震災ニ際シ、独リ土地ノミ損害ヲ被ラザリシ事実ニ徴シ恩半バニ過グルモノガアリマセウ。殊ニ地方ノ土地ト都会ノ土地トヲ比較シテ、後者ノ騰貴率ガ遥カニ前者ヲ凌グコトハ是マタ言フマデモアリマセン。
カカル経済的実情ノ下二アツテ、現代都市ノ諸条件ヲ具備スルヨウ経営サルル市街地ガ営利的ニ双ビナキ安全有利ナ投資タルコトハ明々トシテ争フ可カラザル所デアラウト信ジマス。

かくして、有力者の参画を得て発足、三田義正が同社の社長に就任した。

事業の計画は、まず南部家所有地を譲り受けて埋め立てることにあるが、当該地域一帯は低地で北上川や中津川の氾濫によって一面沼となることも珍しくなかったので、埋立ての高さをどの程度にするかが最も慎重に検討を要することであった。
埋立ての土砂を北上川と中津川との落合(川の合流点)より採り上げることで河川の捌け口も良くしようとする一石二鳥の考えであるが、埋立て基準点を何処におくか極めて重要な事項であった。しかるに、三田義正はこれより先の大正12年に古川端一帯の私有地3,200坪ばかりを埋め立て、その際の高さを幾らにすれば安全かを充分に研究し、自信を得ていた。その時の研究は、北上川の増水時の最高水位を実測し埋立て地の高さを決定すること、基準点を浸水しない道路上に選び、かつその基準点と同一の高さの地点をもう一力所選定して測量することであった。そこで、基準点の一つを原別邸前の石橋の中央、もう一つは現在の大通りにある旅館脇の用水路岸を選ぶ精密周到なものであったという。
大事業には周囲からの圧迫や障害などが付きまとい、特に民間活力による企画は幾多の障壁を越えなければ実現が難しい。埋立て造成を行い、市街地を建設しようとする南部土地会社のこの企画にも難題が数多く突発したが、三田義正社長が率先して対処したのであった。
まず第一に生じたのが、南部家へ支払うべき20万円の資金で、株主が出資金を払込み完了する前に必要としたことである。池野三治郎、池野藤兵衛、菊地儀兵衛の実力者諸氏と同道して主力銀行を訪ね、一時融資の申入れを行ったのであるが、市の発展のための事業であるだけに、問題なく承諾を得るものと信じての行動であったが、案に相違して極めて冷淡な態度であった。けんもほろろの挨拶で、折衝が難航したことから別の銀行に意向を伝えたところ、「盛岡で事業をやるとすれば三田氏が先に立たねばならぬ、三田氏が印を押すなら幾らでも依頼に応ずる」と快諾を得たことから即時解決、他の事情もあって両行から融資を受けることで落着した。
次には、岩手県で農学校を新築移転させたことから、その旧敷地の買取りを求めてきたことである。この要求は好意から出てきたものでなく、当該埋立て地内に県有地があれば事業に支障を来すであろうと足下を見ての話で、敷地跡20,000坪を坪当り30円という高値であった。当時の30円は市内一等地の地価で、南部土地会社でも一等地と同じ30円で売り出す計画で進めていただけに、聞き入れられるものでなかった。しかも、その土地の2割は道路に取られ、さらに側溝を造り舗装するために相当額の負担を強いられることから辞退したのである。県側は、30円で買わないのであれば、跡地の一部を借りて敷設してあった砂利運搬用の軌条を取り外すべしという姿勢を打ち出してきた。盛岡の発展という大きな目的をもって事業を推進していることに対し、便宜を図って然るべきなのに、逆に支障を来すような仕打ちであった。
三田義正はこの仕打ちに屈せず、即刻軌条の取り外しを実施、新たに民有地を借り入れて軌条を再敷設し、引続き砂利運搬を可能にしたので、埋立てに事実上支障を来さず続行し得たのであった。
工事に使用する機械類は最高級のものであり、不審な問題があれば納得するまで究明することは言うまでもなく、絶えずあらゆる立場の人々から意見を求めて参考とした。ある時は土木工学の権威者を招き、直に現場視察を求め指導を受けたり、あるいは大工やその他職人に至るまで意見を聞き、慎重に対応したのであった。
埋立て地内に井戸水を得ようとボーリング機械を借り受けて掘削、450尺(約135m)まで掘っても良水を得られなかった。このため義正自ら東京大学地質学教室まで出向いて学者の意見を聞き、当該埋立て地の地質ではさらに掘り下げても水脈はないということを確かめて、井戸掘りを断念したのである。このボーリング費に相当額の費用を失ったが、これも市民のための研究費であったと、少しも惜しむところがなかった。
また、市内の馬車運搬業の人々から馬車の使用を求められたことも快諾し、天神山方面から山の土を搬入して埋立て地の表土としたのである。
さらに、道路を市内で初めてのアスファルト舗装に仕上げ、この埋立て工事は昭和6年七月をもって竣工した。
いよいよ分譲開始という時になって、盛岡、岩手、九十の三銀行が破綻する地方的恐慌が起こり、担保土地の処分などによって地価が下落したため分譲に支障を来したが、南部土地会社はかねてからの方針を堅持し、予定価格を崩さなかった。
一時的には、老舗で栄える肴町の地価よりも高く、分譲価格に手違いを生ずることにならないかと懸念する向きもあったが、ガス水道の施設はもとより市内で初の舗装道路で、名実ともに立派な新市街であったから果然申し込み者続出、忽ちにして商店軒を並べる一大市区が現出した。
予期以上の高成績を収めることができたため、当初この計画の成果を危ぶみ或は嘲笑していた連中も三田義正の先見の明に敬服し、その行動力に驚嘆するばかりであったといわれている。
中央映画劇場を建設したのが昭和10年である。これがまた、新市街の繁栄を促進したこと甚大なものであった。
三田義正が映画館の建設を思い立った動機について、こんな話がある。それは東京に滞在中のある日、有楽町の劇場の前でキップを求める人が延々と長蛇の列をなしているのを見て、「世の中には何と暇な人間が多いことか、人を集めるには劇場か映画館に限るね」と、同行の人に漏らしたことがあった。また、昭和9年義正が大阪に滞在中、突然映画見物に行こうと言い出した。毎日要務に忙殺され、映画の話など全く口にしたことのない義正が、映画見物とはどういう風の吹き回しかと訝りながらも、宿の女将が先達してある映画館へ出かけた。ところが、中に入ると義正は画面には目もくれず、周囲を見回してばかりであったとのこと、後にして思えば、見物の目的は映画そのものでなく、映画館の構造や施設などの研究のためであったようだ。かくして、昭和10年4月中央映画劇場を着工し、早くも同年八月開館したのであるが、この劇場が万一失敗するようなことがあれば、一切の損害を自分が負担し株主に迷惑をかけぬと言明したことで、ここにも将来に対する深い洞察力と堅い信念を持っていたことが窺われる。

 
 盛岡の美しさを語り、盛岡の計画を研究するほど楽しいことはない、と述べている都市計画の権威石川栄耀工学博士は、「昔は盛岡の繁華街と言えば肴町、呉服町であったが、今は完全に大通りへ移ってしまった。埋め立てて新市街を造った都市は少なくないが、埋立て地にその都市のショッピングセンターが移ったのは恐らく全国で盛岡だけであろう。そして、この繁栄を招来したのは映画舘を造ったことと、小さいながら人道を造ったことで、三田義正氏の達識に敬服のほかはない」と、後に高い評価を下している。
石川栄耀博士は明治26年9月生まれ、盛岡中学を経て東大工学部土木工学科を卒業し東京都建設局長、早大教授などを勤められた都市計画の権威者である。晩年、盛岡市の市政顧問に就任している。

盛岡市大通りの公園寄りの道端に、御田屋清水と呼ばれる湧き水がある。
 
御田屋清水
盛岡市大通1丁目
 田家とは田を管理する者が住むという意味で、転じて下屋敷となり、さらに明治の頃は別荘という意味に用いられた。この辺りは元南都藩侯の菜園があった所で、田家もあったであろうから田家の清水という意味で呼ばれたように考えられるが、史実によれば南部侯が三戸に居城を持っていた頃、同地に御田屋清水と呼ばれた泉があったので、南部利直侯が盛岡に城を築いた時に城の下の清水に三戸の”御田屋清水”を思い出して、此の所の名称としたものといわれている。昔も施設というほどの物はなく、野趣に満ちた清澄な泉であったが、人通りが増えるにしたがい不潔となり、見苦しくなってきたことから、埋立て完成を記念して南部利英氏の筆による「御田屋清水」という標石が建立した。この時、埋立て市街地居住の有志が相談し、開町の由来を記した記念碑を建てようとの提案が南部土地株式会社に出され、実現したものである。

その碑銘は次の通りである。

此ノ地ハ、モト盛岡城ノ外区旧藩侯ノ菜園ナリ 明治以後全市ノ中心ニ当リ、久シク隴畝ヲ存セルヲ以テ市勢ノ発展ヲ阻害スルコト尠カラズ、故三田義正翁之ヲ憂へ昭和二年同志ト共ニ南部土地株式会社ヲ設立シ、専ラ其ノ開発ヲ図レリ。翌三年工ヲ起シ、先ズ北上川ノ土砂ヲ利用シテ埋立ヲ行ヒ、次デ道路屋舎ノ建設ヲ事トス。
旧市街トノ交通ヲ考へ各駅トノ連絡ヲ慮リ、幹線道路二当市最初ノ舗装ヲ施シ列樹照明側溝等二近代都市ノ精粋ヲ鍾メ、或ハ諸多ノ機関ヲ招致シテ各種商店ノ開業ニ便ニシ、或ハ映画劇場ヲ新築シテ民衆文化ノ向上ニ資スル等百般ノ計画一ツトシテ其ノ宜シキヲ制セザルハナシ。
昭和六年岩手県立農学校跡地二万坪ノ払下ゲ行ハルルヤ会社ト県ト提携シテ更ニ一層ノ工程ヲ進メ両者ノ所有地合計約四万六千坪ノ中、道路用地一万坪ヲ除キ三万五千余坪ノ商店街住宅街ノ二区ニ分チ各其ノ規模二則リテ造構スルヲ得タリ。当初以来、此ニ来住セルモノ四百五十戸二千七百人 棟宇櫛比街苞整斉之ヲ旧時ニ比スルニ殆ト隔世ノ感ナキヲ能ハズ。
今茲本会ノ結成十周年ニ当リ当町ノ殷盛既ニ斯ノ如シ。
乃チ此事ヲ石表ニ載セ以テ後代ニ記念ス。

        昭和十六年十一月三日
                                      菜園町会

名水”御田屋清水”は、周辺にビルが林立した昭和40年代初めに枯渇してしまった。
その後、復活を願ってボーリング調査などを実施したが、水脈が見つからず絶望視されていた。しかし、平成4年になって、隣接地で岩手共済会館の建設工事が始まったことから、約25年ぶりに地下水が湧き出した。そして、伝えられるところによれば平成6年6月に、衛生面で万全を期すため紫外線滅菌装置を取り付け、水量1日210tの名水が蘇ったといわれる。