岩手奨学会と岩手中学校・岩手高等学校の創立

大正15年で66歳を迎える三田義正翁は、貴族院議員の公職を無事勤め得たことの記念として地域社会に何か奉仕したいものと願っていた。
大正14、5年ごろ、中学校進学希望者数の激増による第二の中学校創設の世論が高まっていた。それは明治13年、盛岡市内に創立された岩手県立盛岡中学校のみで、年々入学難が激しくなるばかりであったからである。
当時の盛岡市長も、多くの青年が向学の希望を達成し得ず挫折することは極めて重大間題としてとらえ、中学校増設の請願書を県知事に提出し熱心な陳情を行っていた。岩手県内に中学校が五校あるといえども、盛岡市内に受験希望者が片寄るのは避け難く、第二の中学校を開設するより解決の道なしという請願であるが、如何せん岩手県財政上認可される状態でなかった。
元来育英に対する志篤く中学校不足の現状を憂えていたところであり、質実剛健の教育を目的とした中学校の新設で社会に奉仕したいと思い立った。
そこで、私立中学校創設の構想を時の岩手県学務課長に伺ったところ大賛成の見解を得たうえ、むしろ理想的な私立中学校を是非実現して欲しいとのことから、さっそく市長はじめ富田小一郎先生、実弟三田俊次郎氏など熱心な有志の賛同を得て実現を決意したのが大正15年2月11日である。
義正翁は、学校設置費10万円と母堂名義の育英資金2万円と言う多額の資金を醵出し、財団法人岩手奨学会並びに岩手中学校設置の許可申請を行い、大正15年4月19日付けで認可を取得した。理事には年来の友人である栃内曽次郎海軍大将はじめ有力者の参画を得、義正翁が理事長に就任して態勢ができたものの、問題は校舎を如何にするかであった。直ちに、校舎新築は無理であることは言うまでもない。
そこで、目を付けたのが大沢川原小路にあった県立盛岡高等女学校の旧校舎である。高等女学校が移転して不用となっていた校合だけに、借り受けての使用は何ら支障ないはずで、県当局と交渉を重ねたが、容易に賃借の話にならなかった。
それは、地元財界人の一派に遠慮して判断を鈍らせているなど県内部の決定が出ないためであるが、中学校新設を希望する世論を背景に県知事を説得した結果、遂に非協力者の策動を排し県参事会に諮る段階にこぎつけた。その結果は、満場一致で校舎の貸与を可決したのであった。
岩手中学校は、その時既に高等小学校分教場の一部を借りて第一回の入学生徒106名を収容し授業を開始していたのであるが、この結果、大正15年5月27日県立盛岡高等女学校の旧校舎に移転し、ここに名実ともに私立岩手中学校としての態勢が整ったのである。しかも、前途有為な青少年を養成する私立校としての教育方針は、異彩を発揮し大いに注目されるところとなった。
学校敷地並びに校舎の借用期間を5年間とし、さらに満期の場合5年延長するという条件で契約を結び運営のところ、借り受けて3年というのに県財政逼迫につき買取りか返還するかのいずれかを強いられた。
学校教育の重要性を考えれば、県有地を払い下げても当然であるとする義正翁も、返還を求められて300余の生徒を抱え困窮、先々のことも考え、県申入れ額6万円につき私費を投じて学校地所有の手続きを終えたのである。学校教材や備品の整備から教師の配置に至るまでのすべてに、難儀を重ねたであろうことは言を侯たない。
昭和6年3月、生徒の父兄は言うに及ばず、関係者一同期待のうちに、第一回卒業者の誕生を見たのである。
義正翁が教師に求めた姿勢は“師厳道尊”で、学校の指導方針に沿わぬ者、自ら環境を改善しようとする意志のない者、こそこそと悪の種を蒔く者等は縁なき連中で、そんな教師は断るよりほかはないと一貫した態度であった。自由主義教育の名のもとに教育の怠慢に飽き足らず、教育はどこまでも指導者の意欲の問題であるとの見解から、同校の教師に期待するところ極めて大であった。
昭和7年3月学校長の転出が決まり、その後任者を如何したものか苦慮するところであった。熟考の結果、学校に溌剌とした生気を与え、颯爽俊英の青年を世に出すには郷土の大人物を迎えるに如かすと、栃内曽次郎元海軍大将と交渉のところ、同氏の快諾を得ることができた。
日本海軍連合艦隊司令長官という海軍最高の栄誉を担った名士が学校長に就任するというので、岩手中学の生徒や父兄は歓喜し天下羨望の的となったが、昭和7年7月8日の就任挨拶で熱情を込め訓辞のところ壇上で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。同氏は南部藩士の子息で、慶応2年6月盛岡で生まれ、海軍兵学校を卒業して海軍の要職を歴任、連合艦隊司令長官に就き大正13年現役を退いた。享年67才であった。
その後、義正翁は校舎を新築して環境整備を行うべく基本構想の検討に取りかかったが、実現を見ずに昭和10年12月不帰の人となった。
後継者三田義一が直ちに理事長に就き、亡父の志を受け継いで学校経営の任に当たった。念願の校舎新築を決意、昭和12年1月新たに土地を求め、建築の権威葛西万司工学博士に設計を依頼することに決した。
葛西博士は東京帝大建築科を卒業後、恩師辰野金吾先生と設計事務所を創立し、日本銀行や東京駅舎など今も名を残す建物の設計を行った近代建築の第一人者である。かくして、新校舎の竣工を見るに至り昭和13年10月現在地に移転することができた。
終戦後の教育制度が大きく変革、昭和22年3月公布の新教育関係法令により「六三三四制」が定まり、中学校は新制中学校三年の義務教育と新制高等学校三年制へと改められた。私立岩手中学校は、昭和23年度から財団法人岩手高等学校となってスタートした。
校舎が火災によって焼失したことから、時の三田義清理事長が中心となって復旧に努め、昭和52年9月新築に着手、翌53年8月にRC造の本建築で竣工した。
開校78年に及ぶ歴史を誇る岩手中学校・岩手高等学校から、学究者、経済人、実業家等多くの逸材を送り出し、各分野でそれぞれが活躍していることの評価は高い。